二章 インドの洗礼

一九六八年、若者に影響力のあったビートルズのメンバーが、瞑想を学ぶためにしばらくリシケシに滞在したことから、ここは西洋人にとってもインド哲学の聖地として知られるようになっていた。

心と体を浄化するスクハーブルバカプラーナヤーマと呼ばれる呼吸法と、長時間の瞑想に耐えられる体にするためのヨガアサナのレッスンを終えると、ヨガの訓練で最も大切な瞑想の時間が始まる。

「Keep a mind……Relax……心を鎮めて意識を集中する……」

ウィットラムの低く通る声が道場全体に響く。

空気がピーンと張り詰め、彼の声に導かれ、ヨガ道場の生徒一人ひとりが、内なる自分を探す心の旅を始める。

僕は結跏趺坐(けっかふざ)し、両手で印を結んだ。意識は丹田に置き、呼吸に合わせ一から十までゆっくりと数をかぞえる。禅で言うところの数息観(すうそくかん)である。

ヨガアサナで体を柔軟にしたからだろうか、心がとてもリラックスしている。周りにいる生徒の存在が気にならなくなっていた。人間の脳がそう作られているのか、瞑想の働きなのか、呼吸が深く安定してくると、自分がかつて体験したことが脈絡もなく次々と脳裏に浮かんでくる。

昨日街の食堂で食べた、ターリーと呼ばれるインドのカレー定食や、初恋のクラスメイトの面影など……。映像だけでなく、その時食べたターリーの匂いと味、初恋の甘く切ない感情も同時に蘇ってくる。

蘇る記憶は楽しいものばかりではない。一週間前から瞑想中に脳裏をよぎるのは、忘れてしまいたい記憶であり、酒乱の父との辛い思い出だった。

一つの意識はシバナンダアシュラムで瞑想している自分、もう一つの意識が過去へと旅をする。

高校一年の夏休み、僕にとって忘れられない大きな出来事があった。

その日も父は酒に酔って、手がつけられないほどに荒れ狂っていた。僕は気が付くと、無我夢中で父の両襟を締め上げ、右手の拳を振り下ろしていた。

頭の芯がジーンと痺れ、今起きたことが信じられないでいる自分がそこにいた。下を見ると、畳の上に飛び散った血が、気味の悪い模様を作っている。

時間(とき)が一瞬止まったように感じられた後、父は壁の前で横向きに崩れ落ちるように倒れると、ピクリともしない。