一章       自由への道

一九七八年十二月二十二日二十二時三十分 

ガンジス川上流域にあるヒンドゥー教の聖地、リシケシ行きのバスは、旧市街にあたるオールドデリーのバスターミナルを発車した。深夜の首都は、昼間の喧騒を忘れたように静まり、行き交う車はほとんどない。

新市街ニューデリーの中心部、コンノート広場周辺の雑貨店やレストランは全てシャッターを下ろしている。人の気配を感じさせるのは、路地をねぐらとする物乞いの人達の息遣いだけだった。

バスは走り出してしばらくは室内灯を灯していたが、デリーの街並みを過ぎる頃には消えていた。隣の席に座っている口髭を生やした中年の男は、サスペンションの壊れかけている車体の揺れに慣れているのか、体を背もたれに預け深い眠りについている。

車内はほぼ満席で、クミンやターメリック、コリアンダー、ガラムマサラなどインドカレーに使われる刺激の強い香辛料の匂いが充満していた。それはインド人の着ている服だけでなく、彼らの肉体にも染み込んでいて、むせ返るような強い体臭とともに圧迫感を感じさせた。

走り始めて二時間。バスは北を目指している。窓から見える景色は灯りが一つもなく、道沿いにポツンポツンと建つ家が月の淡い光に照らされて影を落としていた。

僕の胸を締め付けているのは、異国の地に一人取り残されたような不安と焦燥感だった。それから逃れるように窓に顔を寄せて、流れ去っていくインドの大地を見続けていた。

不意に、昨日泊まった安宿のすえた枕の匂いが蘇ってきた。そこには旅人が流した汗以外のものも染み付いているようで、明け方まで眠ることができなかった。

インドの深い闇の中を走るバスに揺られていると、ほんの少し前までいた日本が手の届かない彼方に去っていった。

六時二十分、リシケシ。

バスは早朝のバスターミナルに着いた。乗客は、バスの屋根にうず高く載せられたトランクや荷物を運転手から受け取ると足早に去っていく。人気(ひとけ)の消えたバスターミナルには、恐ろしく年代物のオンボロバスが三台停まっているだけだった。