一章 自由への道

一九七八年十二月二十二日二十二時三十分

世界を旅する若者の間で本を交換する習慣があった。多くの旅人の手から手へと受け渡された本は、インド、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、北・中南米へと旅を重ねる。それは遠く離れた異国の地で、祖国との繋がりを感じさせる唯一のものだった。

オールドデリーの安宿で知り合った日本人に、日本から持ってきた小説を一冊プレゼントすると、彼は満面の笑みを浮かべ、愛(いと)おしそうにしてバッグにしまっていた。

それにしてもなぜ、時代小説なのだろう。それに確か『さぶ』は、江戸時代の人足寄場を舞台にした人情話だったはずだ。……僕は意外な感じがした。

日本人が誰も訪れないようなヒンドゥー教の聖地に来る人は、もっと違うものを読んでいるような気がしたからだ。過酷な運命に翻弄されながら、必死に生きる江戸時代の人間に、その人はどんな心情を重ねたのだろうか……。

僕はこの宿にいた見知らぬ日本人に思いを馳せていた。ふと気付くと、テーブルで英字新聞を読んでいた中年男性が椅子から立ち上がり、僕の方に歩いてきた。視線が自分に向けられるまで待っていてくれたみたいだ。

「I am the innkeeper, Ishaan of Swiss Cottage. We welcome you」

宿の主人イシャンは、親しみのこもった笑顔と簡潔な言葉で、歓迎の意を表してくれた。浅黒い肌に彫りの深い顔立ち、背は高く年齢は五十代前半に見える。落ち着きがあり、どこか品の良さを感じさせる宿の主人を見て、なぜ、ウィットラムがこの宿を紹介してくれたのかが分かったような気がした。

紹介状を渡し、一ヶ月分の宿代を支払うと、教えられた二階の部屋に向かった。そこは階段から一番奥の部屋だった。ドアには部屋番号とは別に「自由への道」と文字が彫られた木のプレートが取り付けられていた。ここに泊まった誰かが残したものだろう。