二章 インドの洗礼
シバナンダアシュラムに通い始めて三週間が過ぎた。冬の朝六時はまだ薄暗い。インド北部に位置し、ガンジス川の源流があるインドヒマラヤに近いリシケシは、短い冬といえどもかなりの寒さだ。
ヨガ道場の生徒の人数は日によって違うが、毎朝三十人前後がここにやって来る。そのほとんどが、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアなどから来ている白人で、地元リシケシの住人と思われるインド人は週に一~二度来る二人だけ。もちろん日本人は僕だけだった。
シバナンダアシュラムに限らず、リシケシを訪ねる白人は圧倒的にヨーロッパ系の若者だ。彼らの多くは飛行機を使わず、鉄道やバスを乗り継いで陸路をやってくる。ヒッピーバスと呼ばれるかなりくたびれた乗合バスは、フランスのパリを起点に、中近東の各都市を経由して、インドの首都デリーとの間を定期的に往復していた。
一九六十年代後半、欧米の若者の間に新しい価値観を模索する動きがあった。彼らは西洋文明や資本主義に矛盾と限界を感じ、東洋文明に根ざした禅やヨガ、自然食、ドラッグ、共同体での営みなどを通じて自分達の生き方を探し求めていた。
それは一九六五年に始まったアメリカの北ベトナム爆撃以降、欧米で巻き起こったベトナム戦争への反戦の動きがうねりとなって、世界各地へと広がっていったこととも関係していたのだろう。
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