僕はしばらく身構えて睨んでいたが、父は長い時間動かないままだった。そっと近づいて顔を覗き込むと、父は大きな鼾(いびき)をかいて寝ていた。
夏の夜の濃密な闇と湿気が僕の体を包んでいる。裸電球に照らされた六畳の部屋の狭い空間に、父と僕だけがいた。
「強くなるんだ! もっと強くなるんだ!」
父から少し離れた所に立ち、拳を強く握りしめ、呪文のようにその言葉を自分に言い聞かせる……。
幼少時代から続く暴力の記憶が蘇り、僕の心と体は震え続けていた。この時、僕はまだ知らなかった。瞑想によって思い出される全ての辛い記憶と向き合わなければならない運命が待ち受けていることを。
それは同時に、記憶というものが持っている「不思議」と「不可解さ」を知ることでもあった。
瞑想を始めて三十分。禅定(ぜんじょう)が深まり、心と意識が無限に広がっていく。リシケシのシバナンダアシュラムの道場から、インド亜大陸へ。地球、太陽系、私達の銀河系、そして果てのない広がりを続ける宇宙の彼方へと。
肉体という小宇宙が、大いなる大宇宙そのものの中に包まれていった。静かな時間が流れ、窓から差し込む朝の陽の光が道場を照らしている。
「Keep a mind……Relax……」
ヨガ教師ウィットラムの声が瞑想の終わりを告げる。拡散した心と意識が、徐々に肉体に戻ってくる。約二時間のヨガレッスンは終わった。
僕はその場で、瞑想の心地よい余韻に浸っていた。短い時間だと思っていたが、いつの間にか、周りには誰もいなくなっていた。ゆっくり立ち上がり、床に敷いていた布を畳み、ショルダーバッグに詰める。
道場を出ると振り返り、奥に向かって深く一礼をする。すぐ目の前にある二百三十段の石段が、現実に戻る道のように思えた。
石段のちょうど中ほどに、一人の白人女性が座っていた。同じヨガ道場に通うイギリス人のパトリシアだ。ブロンドの長い髪が、朝陽を浴びてキラキラと輝いている。彼女は何か、物思いに耽っているのだろうか、眼下に広がるガンジス川に視線を向けていた。
肩越しに「ナマステ」と言って声をかけると、パトリシアは僕に気付き、にっこりと微笑みながら両手を胸の前で合わせた。石段が終わる手前で立ち止まり、後ろを振り返る。
─パトリシアの横を通り過ぎる時、微(かす)かに薔薇の香りがしたように感じたのは錯覚だったのだろうか─
彼女はさっきと同じ姿勢で、どこか遠くを見つめている。
─やっぱり錯覚だったのだろう─
僕は自分を納得させると石段を下った。シバナンダアシュラムの道場を出て約一時間、リシケシの中心街まで歩いてきた。ヨガ道場の生徒キャシーから聞いた、ゴローという日本人に会うためだ。
【前回の記事を読む】宿泊した部屋にかけられていた、とある言葉のプレート。その言葉が心に突き刺さり…