葛藤
十月、上杉軍八千は、越後から三国峠(みくにとうげ)を越え、越後からの関東の入り口である野上(こうずけ)に入り、北条に取られた沼田城を落とした。
謙信は、この戦いに大義名分を掲げていた。
それは、関東管領 (かんとうかんれい)が北条に取られた領地を奪回するというものであった。関東管領とは室町幕府が関東を統括させるために設置した役職である。
関東の大名たちは、この大義名分に呼応し、謙信の下(もと)に続々と集まった。その勢いは凄まじく、関東の北条方の城は、次々と落とされていった。困った北条は、同盟国である武田・今川に援軍を求めた。
しかし、謙信の勢いは止まらず、謙信が率いる軍勢は、何と十万を超える程に膨れ上がった。
北条家当主、北条氏康は、「とても敵(かな)わない」と言い、本拠地の小田原城に籠城した。流石(さすが)の謙信も堅牢な小田原城に阻まれ、北条家を滅ぼすことはできなかった。
丁度その頃、要請していた武田・今川の援軍が到着するという知らせも入ってきた。謙信たち十万余の軍勢は、十日に渡る小田原城包囲を諦め、撤退した。
その帰り道に謙信は、参戦大名や武将を伴い、鎌倉の鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう)で関東管領の就任式を行った。室町幕府から任命されていた前の関東管領が上杉謙信に、新しく関東管領の職を継いで欲しいと頼んだからである。
このように、義理人情に篤い謙信は、周囲から絶大な信頼を得ていた。謙信の敵でさえ、その男ぶりに惚れていたのである。また、謙信は、小田原城を囲む戦いの時、敵前で悠々と昼食を取ったという逸話も残っている。
謙信に気づいた北条方が鉄砲を撃ちかけるも、謙信は動揺せずに、そのままお茶を三杯飲みながら、平然と昼食を続けたのであった。