池の方を見下ろすと、抹茶にミルクを溶かし込んだような液面にオレンジ色の光が、半ば吸い取られ半ば弾き返されて、池の表面にわさわさと漂っているかのようだった。

「ここに立って、初め美禰子は池を眺めていた。そしてあなたを見つけ、後はずっとあなたを見ていた、ということね」

「漱石の三四郎は東京帝大の一年生よ。それって、あなたでしょ」とユミは言い、いつものようにツンとした。

「訊いてもいい?」

「なぜあなたは、どうしても一人旅がしたいの?」と、また同じ質問をする。

僕がすぐに答えないでいると、「しつこくてごめんね」と言って言葉を切り、僕がしゃべり出すのを待っている。

「僕がどうしても一人旅をしたいのはね」と口に出してみたが次が出ない。然したる理由がないのか、人に説明できる類のものではないのか、その程度のことかもしれないと、この時僕は感じた。

それで、「とにかく、誰もいない所に行って静かにしていたい」と言った。

「今が忙しすぎるとか、ゆっくりしたいとかじゃない。敢えて言うなら、自分を見つめ直したい、ということかも。でもこれ、陳腐で軽すぎて嘘っぽくて、まさか正解じゃあないとは思うんだけど、説明しようとするとそういうことになってしまう」

「違うわね」とユミがつぶやく。僕の言葉の最後の方と重なるくらいのタイミングで。そして、「違うと思う」と言い切って、漱石が創造した物語の世界からこちら側の世界に引き戻ってきた。それから前を向き、再び足早に坂道を登り始めた。

【前回の記事を読む】あとちょっとでアルバイトが終わりという時にバイト仲間が駆け落ち!?

 

【注目記事】あの日深夜に主人の部屋での出来事があってから気持ちが揺らぎ、つい聞き耳を…

【人気記事】ある日突然の呼び出し。一般社員には生涯縁のない本社人事部に足を踏み入れると…