決して夏が嫌いなわけではない。堅牢なレンガ造りの中の静けさが異様だったのだ。ユミはというと、さっき登って来た石畳の坂を三四郎池に向かって下り始めている。

午後一時過ぎの夏の日差しには色がついている。ユミは白いハンカチで首の辺りをしきりに拭いては、水色の扇子をパタパタと扇ぐ。

舗装から外れて焦げ茶色の地面で追いつき、地表に顔を出している大きな石を二、三個渡ったら池に着いた。

「三四郎が美禰子に初めて出会った場所ね」と、ユミはこちらを振り向いて嬉しそうに笑った。

深いエメラルドグリーンの水を湛えた三四郎池を、深緑色の丘陵が取り囲んでいる。右上方の樹々の隙間から真夏の光線が射し込んでくる。

「美禰子は初め左手奥の高い所にいたのよ。三四郎が見ていると、三四郎のすぐ傍まで降りて来て彼を見るの。三四郎は美禰子の黒目が動く刹那を確かに感じるのよ」とユミは続け、坂道を登り始めた。

道は狭く、池側に傾いており、石と草で歩きにくく、湿っていて滑りやすい、いわゆる山道だった。僕は早めにユミを追い越して先に歩くようにした。ユミは当たり前のように僕の左手に右手を重ねた。

柔らかくて小さな宝物、僕はそれをそっと持って、一歩一歩足元を見ながら、大切な物を運ぶようにして坂道を登った。

「この辺りかな」とつぶやいて、ユミがそっと手を離す。