政子のこんな狼藉を耳にしても、いざ本人を前にすると頼朝はどうも自分が蛇に睨まれた蛙のようになった気分で、思うことも言えず情けなくなってしまう。
自分は政子の夫で源氏の統領なるぞ、ワシのする事に文句があるか、と構えてみても、どうしても政子の前ではさっぱりその威厳も通用しないのだ。しかたがないので、頼朝は牧三郎宗親を呼びつけ、
「御台を大事に思うのは神妙であるが、ワシに断りもなくいきなり乱暴に及ぶとは奇怪(きっかい)である」
と叱りつけた。
勘気(かんき)をこうむった宗親は蝦蟇(がま)のように地べたに這いつくばって詫びたが頼朝は許さず、宗親のもとどりを手ずから切ってしまうと、宗親は恐れてどこかに逃げてしまった。
亀の前を匿い、牧宗親によって屋敷を破壊された伏見広綱も、遠江国(静岡県)に配流されてしまうが、その理由を『吾妻鏡』は「御台所の御憤り」のためと記している。つまり、政子の怒りをしずめる目的で頼朝は忠臣だった伏見広綱を自らの手で処罰しなければならなかったと言うのだ。
この事件は、政子が御家人に対し、鎌倉殿を介さずに直接処分できる存在であり、鎌倉殿と同等の立場であったことが判る。そして、このことは頼朝自身が認めているし、頼朝は牧宗親に「御台所を重んじるのは神妙なこと」とも述べているのだ。
御家人が主君である鎌倉殿の命令に従うのは当然だとしても、その御台所の意志を尊重することも大切な義務であり、正妻の意志を尊重してこそ「神妙(立派)」な人物と認められることがわかる。
御家人からすれば御台所政子は、鎌倉殿と並んで「主人」同様の存在であったのだろう。最終的に、亀の前事件は伏見広綱の配流で終わるが、この配流は頼朝の命令によって行われたのであり、伏見広綱にとっては災難以外何ものでもないようだが、頼朝にとってはほかの御家人に対して失態を見せてしまったのである。
亀の前事件は、政子の嫉妬深く直情的な性格をあらわした事件として着目されてはいるが、政子の権限の大きさがわかる事件でもある。
御台所政子は自ら鎌倉殿に並び立つ存在であることを示すことで、頼朝の死後、幕政を仕切り、承久の乱では御家人を一つにまとめることができたのである。
尼将軍と称されたことも幕府草創期からの政子と御家人との間には強い信頼関係と主従関係が育まれていたのは間違いない。
「我が娘ながら、女というものは、外面菩薩(げめんぼさつ)で、内面夜叉(ないめんやしゃ)と申すが、口先だけは優しそうで巧いことを言うても、いざ本性をあらわすと女人ほど恐ろしいもんはないわい」
と、この騒動に腹を立てた時政は、頼朝が鎌倉に帰ってきた晩、にわかに支度して一族もろとも伊豆へ引き上げてしまった。
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