第1部 政子狂乱録

三 亀の前の厄難

しかし、それでも頼朝の女癖の悪さは収まることがなかったようで、しばらく後になると常陸入道念西(ひたちにゅうどうねんさい)の娘、大進局(だいしんのつぼね)との間に若君を産ませた折には、その父乳母に打診された小野成綱(おのなりつな)や一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)・藤原重弘(ふじわらのしげひろ)らは政子の嫉妬を恐れて、その儀ばかりは平にご容赦を、と悉(ことごと)く辞退する有様だった。

いずれにしても、恐妻の目を盗んでまで懲りずに浮気を続けた頼朝という男は、余ほどの女好きであり、男の性(さが)としての英雄の条件は十分であったようである。

正治元年(1199)正月、頼朝は五十三歳を一期として世を去った。政子四十三歳の時である。

その頼朝の死因であるが、当時の公家の日記『猪隈関白記(いのくまかんぱくき)』には「飲水により重病」とあり、糖尿病であったとしている。

ところが鎌倉側の公式記録である『吾妻鏡(あずまかがみ)』には頼朝の死因を含め、それに先立つ建久七年(1196)以降、三年間の記録が全く欠落しているのだ。

どの時代でも公式記録というものは時の政権に不都合な事実は記録されないのは共通だが、実はこの欠落こそ頼朝の死について様々な憶測を生んでいるのであり、それを記したのが保元の乱(1156)から後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の死の暦応二年(1339)まで約百八十年間の出来事が室町時代に記された『保暦間記(ほうりゃくかんき)』である。

それによると、建久九年(1198)の暮、頼朝が、稲毛重成(いなげしげなり)が政子の妹で亡き妻のために作った橋供養の帰り道、八的ヶ原(やまとがはら)(現在の藤沢市辻堂)というところで異変が起こり、急に辺りが暗くなって馬上の頼朝はこの世とも思えぬ風景を目にしたと言うのである。

それは何やら霧の中で蠢(うごめ)き、こちらに向かってくる十数人の武将の姿であった。先頭の一人、赤地錦の直垂(ひたたれ)に紫末濃(むらさきすそご)の鎧(よろい)はまぎれもない弟義経(よしつね)のものだ。