読後感――読書から学ぶ感性
ヨガについて――人間の本性に迫る(私の理解したこと)2019
戦前の極貧の生活から、いつしか贅沢な衣食住の満たされた生活へと変わりました。その辺の大型店に行ってごらんなさい。これでもかこれでもかとありあまる品々。放漫磊落(らいらく)な消費生活。それでもこころはまだ満たされません。なぜか。
ヨガの世界から見ると、とても滑稽さが浮かび上がってきます。便利さの最中にいながら満たされない心。それは欲望や執着から解放された深く、静かなる自己に到達していないからなのです。私もその一人の迷い子なのです。欲望は科学技術の進化で一層肥大化していきます。
インド哲学では5元素(土・水・火・風・空)で「宇宙」ができており、このプロセスをたどるのがサマディ(悟り)への道。そしてヒマラヤのヨギ(聖者)は自分の記憶から否定的な思い込みを外し、創造の源に出会うことを導くのです。
この原理がサマディマスター(シッダーヨギ、シッダーマスターとも)の本質的なヨガ、様々なカルマ(瞑想法)によって導かれ解脱に誘われるのです。注1)
記忘庵日誌2019・11・24
「私の後始末」
曽野綾子の小品に『私の後始末』(ポプラ社 2019)というのがあります。これを読んでまさに自分自身も「後始末」をしなければと思いました。しかも少しは急がなければ。いやしかし急いでも始まるまい。まあ何とかなる精神で毎日生きてきたので。
「過不足なく自分を認められるか」「現在の地点と時点を愛す」「晩年になって人は青春の意味が解る」「幸せを感ずる才能を開発する」「いい人と思われない自由」「片隅に生きる自由」等270余りの珠玉篇です。
「人は平等でない」と彼女は始末をつけています。
人は平等とはウソであり、「平等を目指す」という意味であって、実際に平等であり、平等になれる保証もないので日本語がオカシイのだと彼女はいいます。私もそう思います。
福祉科学専攻でおよそ「共生」だの「人間の平等」だの「差別なき社会」だのと福祉原論を説いてきた人間としては不埒(ふらち)な思考だと批判されるかもしれません。
「自由・平等・博愛」はフランス革命以来、また「人の上に人をつくらず」は福沢諭吉以来、天下に知られています。時にハンディキャップ者にエールを送り、差別撤廃を目指して学校の運動会では一斉に手をつないでゴールするというパフォーマンスの競技もありました。