秀吉は翌六日に奥州征伐を命じ片桐且元、脇坂安治、榊原康政らに小田原城の接収に当たらせた。

また北条氏直の処遇では氏直の悲壮な決意を潔(いさぎよ)しとして北条氏規や氏勝と共に高野山に蟄居を命じた一方、北条家の家臣ながら内通した松田憲秀や大道寺政繁に対しては主家を裏切った罪で共に切腹を言い渡した。

七月十一日、氏政は、

「我が身いま 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり    空に帰れば」

の辞世の句を残し氏照と共に切腹して果てた。

小田原本城が落ちた後も抵抗を続けていた忍城は丁度この日、城主成田氏長の説得により城を開け渡し裏門から馬に跨った於瀧や甲斐姫、幼い妹たちは美しい着物を羽織って籠城兵や城内にいた領民と共に堂々と退城した。

義宣はこれまでにも多くの城明け渡しを見てきたが今、遠目ながらの情景を見ていると知る限り目にしてきた傷ついた敗残兵が、とぼとぼと降伏退城する惨状を見てきただけに義宣にとっては晴れやかな気分になる一方、あれだけ強くて大きな北条ですら負ければ悲惨な結末を迎えるという現実も目にした。

"戦に負けてはならぬ、どんな手を使っても勝って生き抜くのだ"と改めて強く感じた。だが、この遠征で弱冠義宣が得た教訓はこれだけではなかった。

【戦国余話─甲斐姫編】

甲斐姫と於瀧には後日談がある。

忍城開城後、成田氏長は於瀧や甲斐姫らと共に会津に転封となった蒲生氏郷に預けられ領内の福井城で一万石を与えられていたが領内で起きた一揆の鎮圧に向かった氏長の留守を九州大友家の浪人で蒲生家に仕えていた浜田将監兄弟が乗っ取りを企み福井城を急襲したのである。

不意を突かれた城方では於瀧が殺害され修羅場と化した。その急を知った甲斐姫は鎧を着けると愛用の薙刀で浜田弟の十左衛門の首を打ち落とし、逃げ惑う将監をも追い詰めて生け捕りにして引き返してきた氏長に引き渡したということである。

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