「とにかく仕事の途中で呼ばれるのは困るから。今日の日当、稼げなかったじゃない。もううんていなんかするんじゃない」

強い調子で言った。(そんな言い方しなくても、今度から気をつけるって)言おうとした言葉を飲み込んだ。

ご飯の前に口答えして、「もう食べなくていい」と、ご飯を捨てられたことが何度もある。(今夜はスイカまでついているんだぜ)あれを食べないという手はないと、俺の心の声が言った。母さんと二人黙々と弁当を食べた。

電子レンジは使わなかったが、ほんのり温かくて今夜の一人ではない夕食は、それだけで俺にはご馳走だった。食後のスイカを出された途端に、息もつかずに食べ切った。

「私は明日の用意するから、あんたはもう寝なさい」

まだ眠くなくても、母さんの「寝なさい」が出ると、寝室に引き上げなければならないのがわが家のルールだった。寝室といっても、ちゃんと個室が与えられているわけではない。六畳間をカーテンで仕切り、母さんと半分ずつ使い寝床にしていた。

うちにはテレビが台所に一台しかない。その頃、流行っていたゲーム機も、従兄弟のお下がりで二機種ぐらい前のものをやっとのことでもらってきて、大事に大事に使っていた。

母さんは、俺に勉強しろとは言わなかった。その代わり、学校は休まずに行けと言われた。給食が出るからだ。家で朝食を食べる習慣がなかった俺には、栄養を十分に摂取することのできる唯一の食事だった。

学校は大きな団地の子、無数にある小さなアパートに住んでいる子がほとんどだった。両親が揃っていても、共稼ぎの家庭が多かった。学校までは林と畑ばかりで、戸建ての家は数えるほどしかなかった。

「あまりいい家の子はいないわ」

なんかのときに母さんがそう言ったが、子どもだった俺は、その言葉の意味も深く考えていなかった。

小学校の修学旅行にも行かずに、卒業を迎えた。

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