安否確認

子供のいるスタッフを早々に帰した。現場に出ていたスタッフは連絡が取れない。一緒にいたS君と周囲の状況を把握することに努め、その後は彼も早めに帰宅させた。自分は事前に準備していた家族やスタッフの緊急連絡先メモをもとに安否確認を始めた。

地震後まもなく娘の勤務先の会社と連絡が取れ、娘の無事を確認した。しかし、その後に携帯電話は繋がらなくなり、連絡手段がなくなった。会社の近くに住む元従業員Kさんの母親が住んでいる自宅を訪ねたが、いる気配がない。そこにKさんが駆け付けてきた。

地震で破壊された道と混乱する中、普段なら30分の道のりを2時間掛けて辿り着いたそうだ。顔には表情がない。「たぶん、私の自宅に避難したはず」とKさんはその場を去った。私も会社に戻り足の置き場もなかった部屋の通路を確保しながら何度も携帯電話で安否確認を試みた。しかしその日、安否確認は叶わなかった。

夜8時ごろ、連れ合いの職場である仙台市若林区役所に行った。役所は書類が散乱し足の踏み場もなかった。上司に面会し、無事であると確認が取れた。彼女は地震後、六郷小学校へ緊急派遣されていた。道端には200人を超える死体が津波で流れ着いているとラジオが放送していた地区だ。

自分は夜10時過ぎ帰宅した。水道は使えたが停電は続いている。雪が降る寒い夜、深夜には見たこともない満天の星空が見えた。近隣住人は小学校へ避難した様子で気配がない。

余震で何度も揺れる中、一人自宅の薪ストーブで暖を取り不安な夜を過ごした。電気という存在が当たり前の生活だったが、それが途切れてしまった。薪ストーブの灯の前で飲む温かいコーヒーは少しずつ震える体を落ち着かせてくれた。

4日後に停電が解消された時の気持ちはいまだ忘れられない。神奈川県にいた息子とは3日後に無事の確認が取れた。そして、家族や親せき、スタッフの安否確認はその後1週間が経っても半数に満たなかった。

大地震が来ると言われ始めた3年前ごろ、弊社スタッフMさんのお子さんが通う小学校から、父兄は緊急連絡先名簿を提出するよう指示されていた。名簿は5人まで記載、その中にスタッフMさんが勤める会社の代表である自分も記載された。

それを機に、弊社も緊急連絡先名簿は携帯電話番号を軸に作ったが、今回の地震で思わぬ体験をした。大地震で携帯電話のインフラは役に立たなかった。現代社会において苦い体験である。地震発生後、全国の人はニュースを聞き電話で連絡を取り合っていた。

現地にいる者だけ携帯が繋がらず、恐怖の中、孤立状態であった。神奈川県で新入社員研修を受けていた息子は上司から「東北で大変なことが起きている」と聞いたという。息子は家族に連絡を取ろうと試みたが叶わなかった。

パニック状態の中、いざという時の災害用伝言ダイヤル「171」はほとんど活用されなかった。私も、その存在は全く意識の中になかった。思考が途切れていた。災害用伝言ダイヤルは普段から習得しておく必要があると、深く、深く反省することとなった。

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