商業施設士が見た東日本大震災―現場から、未来へ

はじめに

私は、商業施設士という仕事をしている。

商業施設士とは簡単にいうと、百貨店やショッピングセンター、レクリエーション施設、美術館、展示施設など様々な商業施設の企画、設計、デザイン、または施工などに関わる仕事である。

2011年3月11日、未曽有の大災害として日本を襲った東日本大震災。この予期せぬ災害がもたらした被害は、津波による倒壊も合わせて全半壊数が401,306戸と公式発表されている(内閣府HP2012年1月12日時点)。

たくさんの商業施設が被害に遭う中、商業施設士としてじっとしているわけにはいかず、私は震災翌日から被災地の被災店舗に足を運んだ。復旧の仕事をしながら毎週日曜日に朝市に通い子供服の支援物資を届ける。

そんな中、生活圏内でもあるゆりあげ港朝市と宮城県北部の復興市に足を延ばし「市」の記録を取った。「市」とは、定期的に人が集まり物の売買や物々交換などを行う場で、商業活動で昔から採用されているスタイルである。私はその様子を記録した。

また、復旧作業をする中で、ニュースで流れてくる埋め立て事業の規模や街づくりプランの内容に違和感を覚えた。ハード事業が先行していて、その規模は市民のアンケート調査から見える商業立地や生活圏規模と大きな隔たりがあるように感じたのである。この事業はすべて国民の税金で行われる。

そこで私は、八戸市から北茨城市まで足を運んだ。埋め立て事業が進み始めたころのことだ。それぞれの地域に固有の地形がありその中で人々は歴史をはぐくんできた。

にも拘らず、行政の、「波に呑まれた地域をまずは埋め立てよう」「とにかく広く埋め立てておこう」という姿が見え隠れしていた。

私は、このままではいけない、意見を述べるにもまずは現状をきちんと把握しなければならないと感じ、震災から3年後、商業施設の仕事に関わる仲間に声を掛け、現地へ視察に入った。視察は3回にわたった。