第1回視察は2014年11月に岩手県南部から宮城県閖上地区まで。第2回は2015年10月に宮城県南部から主に福島県を中心に。第3回は2019年10月に第1回と同じコースを辿り、「8年目の検証」と称して復興の進みを視察した。

今回の震災で各被災地は、地震災害、津波災害、原発災害と、全く性格の違う災害を経験した。したがって、復興はそれぞれに違う条件を抱え、思うように進まぬ状態である。12年経った今でも、原発被災地の商業施設は全く先が見えない。

そんな状況に対し、私は商業施設士として何ができるのか。そう考えた時、「現場を体験した者として、現地で聞いた生の声を伝えたい」という強い思いが湧き上がってきた。

震災当日から今日まで、自らが体験した事柄、商業施設の現状と役割、そして提起をここに記すこととする。

東日本大震災

地震当日

地鳴りが不安な気配を掻き立て、揺れが始まった。来たか? 来た! 大きな揺れが始まった。天井の吊りエアコンは切れんばかりに暴れている。いつもと違うその揺れは建物の崩壊を想像させた。

「外へ出ろ! ドア開けろ!」と叫び、2階から1階外へと逃げる。スタッフの顔色が変わった。立っていられない体を手すりに沿わせて下まで降り、靴を履き、割れんばかりのガラス扉を開け外へ出た。

地面に座り込んで空を見上げる。電柱はお互い電線で支えられながら大きく揺れていた。「止まってくれ、止まってくれ」と言葉にならない声で叫んでいた。

揺れがおさまったかなと思えたわずか数秒間、周囲を見回す。近隣の人たちが地面に座っていた。お互い顔を見合うだけだった。

揺れが少し長い? まだおさまらないかと思っているとまた次の揺れが来た。「ええっ」と言葉にならない唸りが漏れる。今度はさらに大きい。平坦な地面を転げ落ちそうな揺れが続いた。地面が沈むのではないかと思った。

映画『日本沈没』のシーンが脳内を駆け回った。2度の大揺れが3分間続いた。地べたにへばりつき「止まれ、止まれ!」と声にして叫んでいた。

それは、5分も10分も続いたように感じたが、実際は3分弱の出来事である。震度6強の地震であった。仙台管区気象台はその後、震度4以上の揺れが約170秒続いたと報じている。揺れはおさまり始めたが、しばらくは何も考えられない時間が続いた。