彼は紅茶のカップを手に取り、一度ゆっくりと口に含む。
「だって、初めてのデートとか完全に俺たちだったし。いや、それは別にいいんだけど……ベッドシーンとかそのまま書くんだなとか」
あ、そういう。
「いいじゃない、もう終わったことなんだし」
それにベッドの中なんて結局はみんな同じようなことをしているのだ。掛橋くんが恥ずかしがることではない。
と、言ったら彼はドン引きだろうか。
「ホントにそう思ってる?」
「はい?」
「あれは終わったと思ってる人間の文章じゃないだろ?」
こちらに向いた彼の視線には、何かしらの期待が込められていた。売れない小説家という人種を受け入れられなかった男がそんなものを持ち出すとは、少々意外であったが。
「私はまだ売れない小説家だからね」
「分かってるよって、言ったら失礼か。でも、本当に売れちゃって手が届かなくなる前にあすみちゃんの気持ちを確認しておきたくなったのかもしれない」
掛橋くんがいい奴だということが、ひしひしと伝わってくる告白だった。
「うーん、書いてる時は確かに未練タラタラだった気もするんだけどさ」
「え?」
「書き晒してすっきりしちゃったのかな。ホントにもう終わったことなの」
久しぶりに掛橋くんの顔を見て、懐かしさはあれどもそれ以上の感情には至らなかった。たぶん、それが答えだ。
「そっか。だったら俺も、もう忘れた方がいいのかな」
「忘れるって言うと淋しいけど」
前を向けたらいい。ということを伝えようとして――愕然とした。
「何で……?」
悪魔がしれっとそこにいるのだ。ソファのすぐ脇に立ち、真顔で掛橋くんのことを見下ろしていた。私の視線を追って振り向いた彼の顔を、更に遠慮なく覗き込む。
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