4年が過ぎた頃、母が交通事故に遭ったという知らせを受けて帰郷し、その後東京に戻ることはできませんでした。でも、働くことの楽しさを東京で知り、商売への憧れも芽生えていたため、23歳という若さで、当時流行っていたブティックを釧路でオープンしました。小さいながらもこのお店は、釧路では初のブティック、第1号店でした。
この時のエピソードと言えば、当時大人気の某デザイナーズブランドに買い付けに行った時のことです。なんの実績も人脈もない私が商品を扱いたいとアポなしで訪問したにもかかわらず、創設者の社長が快く会ってくださり、取引に応じてくれたのです。
保証金も取らず、必要な分だけの仕入れでよいとの契約は、資金力のない私には夢のような話でした。私の熱い思いだけを信じていただいたことがありがたく、生涯忘れ得ぬ思い出です。その後、長く経営に携わってこられたのも、この時の経験があったからこそと改めて思います。
やがて昭和50年に結婚。52年から夫が経営する会社の経理を担当するようになったのですが、ある時は作業員として現場に出て朝から晩まで働くこともありました。
57年に第1子、62年に第2子が誕生してから現場に出ることもなくなり、育児と経理の仕事に専念するようになりました。そして、子育てが一段落した頃から奉仕活動を始め、地域貢献事業にも取り組み始めました。
私は10代の頃から、釧路のような北海道の地方都市は教育も文化も経済もすべてにおいて東京などの大都市と比べて差があることに疑問を感じていました。とくに2児の母となり子育てをするなかで感じたのが、教育の格差でした。