定年退職の転機はそれまでの転機とは性格・質ともにまるで違う。それは第1の人生で遭遇した転機と比較をすると、既存のフェーズがあるかないかの差である。我々は入学も就職も自分の努力のみで達成したと思いがちだ。

確かに個々人の努力もあるかもしれないが、学校や会社というものはすでにこの社会に存在していた。学校や会社の建物も見えていた、つまり固有の名詞、固有の不動産があったのだ。また学校や会社には多くの人間がいて、年代ごとの集団もマスとしてよく見えた。

その集団の中には、あのような人になってみたいと思わせるロールモデルやメンターもいる確率が高かった。また彼らから情報も得られた。もうすでに移り変わる次のステージには器(建物、人間)が可視化され用意されていたのだ。言い換えれば「あてがいぶちのある世界」、であったのだ。

それが定年退職時の転機はそれまでの転機とはまるで違う状況になるのだ。

まず定年退職者のための社会的器は必ずしも用意されていない。めでたく定年卒業した人たちを新規一括で採用する会社はない。現行の再雇用制度は新規一括集団雇用延長制度である。

また定年退職後の人々がどのような仕事をしているのか年代毎の集団として見えないし、個人も見えない。すなわちロールモデルもメンターも探しにくく情報も得られにくい状況になっている。定年退職後の人生は、社会のあてがいぶちのない世界になるのだ。

さて定年後退職後の人生、あてがいぶちのない世界を考えるときに気になる単語がある。それは老後という言葉だ。

まず赤ん坊が生まれた後の誕生後という期間はおそらく子供時代のことであろう。子供後は青年時代、青年後は中年時代、中年後は老年時代である。

そうすると老年後を表す老後という期間は、死んでいる期間になってしまう。人生100時代は60歳以降40年も第2の人生があるのだから、その期間を老後というと生きているのに死んでいる表現になり変である。

ということは、老後という表現は寿命の短い人生50年以下時代にふさわしく、人生100年時代にはしっくり来ないと私は感じている。

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