九十九髪

永禄八(一五六五)年正月二九日。

大和は麗かな陽気に溢れている。平城山からは、鴬の笹鳴きが聞こえてくる。

宗易は、昨日のうちに堺から奈良に入り、早速茶会の前礼を済ませている。今は、逸る気持ちを抑え、春の陽射しと鴬を楽しんでいる。そして、二つの念願が叶う喜びに心が満ち溢れていた。一つ目は、今や天下人とも言える松永久秀様にお目にかかることが出来る事。二つ目は、天下無双の茶入『九十九髪茄子(つくもかみなす)』を拝見出来る事であった。

ここ二〇年間、畿内は、三好長慶(ながよし)によって何とか纏まっていた。その補佐役をしていた松永久秀は、「三好人衆」といわれた三好宗渭(そうい)・三好長逸(ながやす)・岩成友通らと鎬(しのぎ)を削る争いを繰り返しながら、今や長慶をも凌ぐ実力者となっていたのである。

長慶の弟である安宅(あたぎ)冬康・十河一存(そごうかずまさ)、長慶の息子三好義興らは、全て久秀の手に罹り殺害されたと噂されている。そして昨年の七月、三好長慶の死により、弟十河一存の子重存(しげまさ)が一四歳で三好家惣領となったのである。三好義継である。久秀の意のままである。

松永久秀の居城「多聞山城」は、美しい城である。イエズス会宣教師フロイスは「日本において、最も美麗なる物の一つ。世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と讃えている。

本日の茶会は、奈良茶の湯の重鎮松屋久政の執り成しである。正客は堺の長老養拙斎。宗易、久政の他に、末座に若狭屋宗可が座った。宗可は堺の茶人であり、久秀の御用商人でもある。この日は、久秀の代わりに点前を行う。(資料会記③)

正客の養拙斎松江隆仙は、堺の中小路に住む茶人である。五年前、宗易は近江で「密庵(みったん)の墨蹟」を求めた事がある。中国南宋の禅僧密庵咸傑(かんけつ)は日本の禅僧にも多大な影響を与えている。その墨跡とそれを掛ける為の茶室、大徳寺龍光院『密庵』は、共に現在国宝に指定されている。

師の北向道陳と隆仙を招いた茶会でその墨蹟を用いたのだが、隆仙より「偽物」と喝破されたのであった。宗易は、その場で墨蹟を焼き捨てた。生涯忘れられない苦い思い出である。しかし、隆仙にはそれ以来、何かと墨蹟について尋ねる事が多くなっている。

松屋久政は、代々続く奈良の塗師で茶人である。土門源三郎を名乗り、通称「漆屋源三郎」。茶名は宗朋。村田珠光所持の『肩衝茶入(松屋肩衝)』、徐煕(じょき)が描いた『鷺の絵』『存星盆』の三点は「松屋三名物」と称され、これを見なければ「侘び」は語れないと言われている。

宗易は、二年前の十一月に念願が叶い「松屋三名物」を拝見している。この頃の宗易は一流の茶人となるべく修行中である。仲間からも「茶の湯常住」と評価されていた。津田宗及の強い勧めもあり、名物茶入の勉強の為に作り始めた「茶入切型」(茶入を実見し、形・大きさ・釉(くすり)流れなどを書き記した物)は五十口になろうとしていたのである。

【前回の記事を読む】唐の思想であり、完成して既に一五〇〇年ほどの『陰陽五行説』とは?