百円札をきっかけに
時間を少し戻そう。二十七歳の休日のことだ。一人で買い物に出かけた私は、午後三時頃に寮に戻ろうと千葉駅の駅ビル内を歩いていた。
この前年、千葉駅には駅ビル「千葉ステーション」がオープンした。多くの飲食店や衣料品店などが入っていて、たくさんの人が集まる人気スポットになっていたのだ。
私が人混みをかきわけるように歩いていたとき、うしろから若い女性に声をかけられた。
「落ちましたよ」
振り返ると、女性の手には一枚の百円札があった。
私は財布を持つ習慣がなく、お金はすべてズボンのポケットに突っ込んでおくクセがあった。ちょうど真夏の暑い時期で、汗を拭おうとポケットからハンカチを出したときに、お札が落ちてしまったらしい。
差し出された百円札を受け取り、「ありがとう」とお礼を言った。そして、そのまま改札に向かい、家路についた。それだけのこと、のはずだった。
それから三か月ほど経ってからのことだろうか。季節はすっかり秋になっていた。その日も私は千葉駅周辺まで出かけていたのだが、千葉ステーションのある店の前で買い物をしている女性に目が留まった。
ピンときた。あのときお金を拾ってくれた女性だとわかったからだ。思わず声をかけたが、彼女は不思議そうな顔をしたままだ。
「三か月ほど前、お金を拾ってくれましたよね。百円札……」
「ああ、あのときの!」
彼女の緊張した顔がやわらいだ。その笑顔を見て、思い切ってお茶に誘ってみたところ、OKの返事をしてくれた。
喫茶店でコーヒーを飲みながら、互いに自己紹介をした。彼女は品川にあるエネルギー関連企業の千葉支店で働いているという。自宅は佐倉と聞いて、あの長嶋茂雄の出身地かと盛り上がる。
戦後に少年時代を迎えた者の多くは、誰もが野球に夢中になった。今は九州にはソフトバンクがあるが、あの頃の九州の野球好きの多くは巨人ファンだったのではないだろうか。巨人軍のV9、黄金時代を築いた川上哲治監督は、熊本の出身である。
私は特に長嶋の華麗な三塁の守備に憧れていた。長嶋は佐倉一高の出身で、彼女は佐倉二高の出身。もちろん長嶋ファン、そして巨人ファンだそうだ。
世の中には巨人ファンの若い女性は多くいるだろうし、千葉駅なのだから、長嶋と同じ佐倉出身の人に出会う可能性もなくはないだろう。それでもそのときは、運命の出会いであると感じた。
なぜ、三か月も前に百円札を拾ってくれただけの彼女の顔を覚えていたか。一言で言えば、タイプだったのだと思う。すごく目立つ美人というわけではなかったが、自分の心の中では何かピンとくるものがあったのだ。