軈(やが)て大勢に囲まれ乍ら犬山君が戻って来てにこにこして名前を呼び初めた。ほう、犬山の名前もあるな患者名儀で六病棟事務をしていたのだ。保は両腕を頭のうしろに組んでそろそろ暗くなって来た病室の天井を見つめていた。
知る者、知らぬ者の名前が次々に呼ばれ元気な返事が響く。誰に家への連絡を頼もうかな。一番最後に保の名前が呼ばれ保は他人事の様に天井に目をやったまま返事した。保の姓はロシア語アルファベットの最後である。
「さて還らせて頂くか」。
「捕虜だったんだ。還っても団結しよう」。
虚ろな騒音をあとに保は毛布をまといサボ1)を履いて外へ出た。七病棟裏の畠で一人シェシャルクが日暮れを惜しむかの様にひまわりを丹精している。
「ドクターシェシャルク」
「おお保、何」
「ドクター、私は明後日国へ還ります」
シェシャルクは見る見る中に涙を一杯にじませ、固く保の手を握りしめ、左手で保の肩をぐっと摑んだ。
「保、保、おお保。よかったなあ。還るんですか。よかったよかった。あなた方はもう一度新しく出発するんだ。私たちはこの畠をあと数回種子播き収穫しなければならない。ムッターが嘸(さぞ)驚くでしょう」。
あご髭のないあごを少時撫でていたシェシャルクはうつむき加減に言いにく相に「保、あの若し出来たら私の故郷へ手紙を出しては呉れまいか。年老いた両親は地球を半廻りしてきた便りに嘸(さぞ)かし驚くだろう。そして喜ぶ事だろう。何しろ山の中だから」。