夕刻近く堤は数か所で崩れ始め、ついには決壊した。その堤を押し流した濁流はさらに低い所にある下忍口の義宣や三成の陣所をも襲い三百余人の溺死者を出してしまった。

洪水の去った後の城の周りはまた元の湿地帯に戻っただけであった。

この堤の決壊の裏には忍城内から参加していた地元の農民が一枚噛んでいた。

この農民たちは地形を熟知していただけでなく天候の変化をも読み切っていたのだ。今は丁度田植えの時期に当たり天気の良し悪しは重要な農事上の関心事である。そのため農民たちは遠くの山に懸かる雲や家畜や鳥の行動などからこの低気圧の襲来を事前に察知していた。そこで彼らは堤のどこを破壊すれば相手に対して最も大きな損害を与えられ、しかも自分たちの田畑に被害が少ないかを見極め、その部分に手抜きを行ったのである。籠城軍にすれば蟻の一穴の勝利であった。

六月二十五日には北条氏邦の鉢形城を攻め落とした浅野長吉が援軍として参戦し長野口から攻撃を仕かけ一塁を破り大手門へと向かった。それを見た甲斐姫は緋縅 (ひおど)しの鎧を纏い薙刀 (なぎなた)を小脇に抱え馬を駆け大手門を出ると浅野軍の中へ突進し得意の薙刀で敵を切り伏せ、切り伏せ大音声 (だいおんじょう)で名乗りを上げた。

「我は成田氏長が娘、甲斐と申す。浅野弾正殿の手の者とお見受けした。いざ勝負召されよ!」

浅野軍はその勢いに押されジリジリと後退し、やがて城外へ押し戻されてしまった。

秀吉はいつまでも陥落しない忍城攻撃に今度は北条氏照の八王子城を落とした真田昌幸、信繁[幸村]父子を援軍として派遣したが、またもや甲斐姫らの反撃に遭い持田口を抜くことも出来ず退却した。その後、忍城攻防戦は一進一退の膠着状態に陥った。

埒(らち)の明かない忍城攻撃に一時は三成に手柄を立てさせてやろうと思っていた秀吉だったが当初の手はず通り成田氏長からの内通の話を受け入れ氏長の連歌の友であり秀吉の祐筆である山中長俊に仲介を命じた。

一方、小田原に遅参し一夜城で有名な石垣山の普請場で謁見を許された伊達政宗は秀吉に遅参の理由と惣無事令違反を問われ苦しい弁明に終始するも秀吉の傍に近侍していた家康の執り成しもあり許された。

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