壱の章 臣従
小田原陣
その時、既に忍城内では小田原本城へ援軍として出向いていた城主氏長から秀吉に内通の上、上方勢に降るよう指示されていた城代の成田泰季が急死していたのである。
しかしそんな裏の話があるとは露ほども知らない忍城の重臣たちは降伏ではなく籠城と決した。それを強硬に押したのが於瀧と十九歳の甲斐姫だった。軍使として忍城内に入った三楽斎は於瀧[のち天養院]と対面し降伏を勧めた。
「於瀧、息災で何よりじゃ。このような役回りでなければ氏長殿と一献酌み交わしたい所じゃが、それが叶わのうて残念じゃな。儂は使いとして参った故、和戦の何れかを問わねばならぬ。開城するなら御城代はじめ城兵らにお咎めはない。所領もそのままと致し領民の住まい田畑もそのまま安堵致すとの殿下のお言葉である」
「父上、お久しゅうございます。さりながら父上のお勧めではございますが、たった今、重臣会議で籠城と決しました」
於瀧はにべもなくこう言うと、さらに続けた。
「二十年近く前のことになりますが、上杉謙信様と成田の義父(ちち)上が不仲となりました折、その和解の条件の一つとして氏長殿の先の奥方様を無理やり離縁させ、その後添えとしてわたくしが嫁して参りました。そのことは父上が一番ご存じのはずでございましょう。先の奥方様と御屋形様はお互いに慕い合うておられたのです。そこへ後妻に入ったわたくしの居心地の悪さは父上にはお分かりになりますまい。
女人は殿方の道具ではありませぬ。先の奥方様との間には甲斐という姫がおられますし、わたくしにも於巻という娘がおります。わたくしは御屋形様からお城と娘たちを守るよう仰せつかっております故、お城の方々と共にお城と娘たちを守ります。父上はお戻りになって関白殿下にその旨お伝えくださいまし」
語気の強さとは裏腹に於瀧の目端にはうっすらと涙が浮かんでいる。於瀧が今まで味わってきた労苦と年老いた父の懇願を非情にも拒絶したことへの悔しさと悲しみがいち時に去来したのであろう。於瀧の気持ちは三楽斎にもよく分かった。
「相分かった。それが御重臣方の御決断なら、その旨、関白殿下にお伝えしよう。しかし、儂もこの歳になってから怒られてばかりじゃ。はっはっは。於瀧よ、これが今生の別れとなるやも知れぬ。達者で暮らせ。さらばじゃ」
座を立ち去る三楽斎は背に於瀧の嗚咽を殺した肩の震えを感じていた。