六月四日、戦闘は開始された。まず大谷隊と長束隊は五か所からの一斉攻撃に出たが城に繋がる道は狭く一歩でも道を外れると進退もままならないぬかるんだ深田である。立ち往生している所を城から狙撃され死傷者を出して退いた。

翌日、三成の下知で義宣らが下忍口から沼に筏(いかだ)を浮かべ城際まで迫ったが城からの銃撃で数人を失い退却を余儀なくされた。何の戦果も上げられずに日ばかりが経ってゆく。

このまま二万七千の軍勢が兵六百足らずで守る城を落とせず日を費やせば初めての大役に水を差すばかりでなく、いい笑い者になってしまう。

三成は焦った。─何としても落とさねばならぬ。金ならいくらかかってもいい─これが秀吉の傍(そば)で学んだ戦略の一つである。そこで三成は義宣や大谷らの主だった者を本陣に呼び集めた。

「城は低湿地にあり、かつ二本の川に挟まれている。ここ丸墓山を基点に堤を築き、我が殿の備中高松城を水攻めにした故知に倣い某もその戦術を採ろうと思うが如何でござろうか?」

三成のこの問いかけに大谷吉継が反論した。

「なあに、そのような手間暇をかけることはない。我ら二万七千が全ての口から総攻撃をかければ一日もかからず落とせよう」

「それでは余りに犠牲が多過ぎる。殿からお預かりした軍勢なれば犠牲は最小限に抑えたい。長束殿、作事奉行として早速必要な人夫の数や土のうの量などを算用してみてくだされ」

「ならば……」

吉継はむっとなった。─それでは最初から水攻めは決まっていたのではないか。ならば意見など聞くな─

「ならば……何じゃ?紀之介」

「いや、いい。佐吉、お主が総大将だ。儂はお主に従うまでだ」

吉継は十五、六歳の時に豊後を出奔し大坂堺でフラフラしている所を、既に秀吉の小姓として仕えていた三成と出会い、その執り成しで秀吉に仕官した。その時から三成を佐吉、吉継を紀之介とお互いに呼び合う仲であるが二歳年上の吉継に三成はいつも上からものを言う。いや、誰に対しても尊大な態度なのだ。

「では、水攻めと致す」

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