そう、咲子も今までの話を忘れたかのように言う。

祐介には、美沙の夫の辛抱強さが思われ、同時に意地を張り続ける美沙が哀れにも思えた。また、それでも夫婦生活を続けられる仲を羨ましいとさえ思う。

祐介は、話題を変えた。

「ところで、北見(きたみ)と有芽子(ゆめこ)女史はどうしてる?」

「有芽子のおばあちゃんが亡くなられたところまでは知っているけど、それから先は全然分からないわ」

「そうなんだ。元気でいればいいけど……」

有芽子は、色々と病気がちであった。その夫となったのが北見勇作(ゆうさく)である。祐介たちは、同じ桜木(さくらぎ)美術大学で学生時代を共に過ごした仲であった。

「祐介君ともそのうち、お会いすることがあるかも」

「そうだね……。それじゃあ、お元気で……。旦那さんにもよろしく」

四十を過ぎて、男が既婚の学生時代の女友達に電話をするというのは、そうあることではないだろう。ちょっぴり旦那への遠慮もある。まして、祐介から会うことはない。これから先も個展に足を運んでくれるとか、何か起きない限りは会うことはないだろう。

祐介と美沙との事を知っているのは、たぶん咲子と有芽子くらいであろう。いや、おしゃべりで好奇心旺盛な彼女たちだから、他にも知る人は大勢いたのかも知れない。美沙には、祐介の知る限りでは付き合っていた男が自分の他にもう一人いた。

祐介は、美沙と最後に別れるとき交わした言葉をよく覚えている。

「榊を名乗ってくれる人がいるの……。だから、その人と結婚する」

「……そう。俺にはそれはできないから……。幸せにね」

幸せにねって、取って付けたように言った気がする。あっさりとした会話だった。とても祐介の方から結婚相手の女性のために姓を変えるなどとは、少しも思っていなかった。祐介は一人っ子であったので、家を守る立場であることの自覚は幼い頃からあったように思う。また、鎌倉に住む教員一家の家族からもそういう育てられ方をされてきた。

だから、美沙の相手も長男だと聞いていたから、その男の美沙に対する愛情の深さを感じずにはいられなかった。