序章 夜の電話
遠山祐介(とおやまゆうすけ)は、十七年ぶりに学生時代の女友達である咲子(さきこ)に電話をする。咲子は、祐介が個展を開くことを知って、祝いにと豪華な薔薇の衝立(ついたて)を画廊まで送った。そのことへのお礼の電話だった。
祐介が名乗ると高調子の言葉がぽんぽん返ってきた。懐かしい声であった。その調子につられて祐介の言葉も学生時代の若者言葉を返していた。
電話というものは都合の良いものである。祐介の脳裏には、十七年前の咲子の茶目っ気たっぷりな、あの丸い顔しか浮かんでこない。
咲子には銀行員の夫と四人の子供がおり、長女は間もなく中三だそうだ。たぶん彼女も、祐介の白髪混じりの今の姿を想像すらできるはずもない。用件を済ますと、つぎは学生時代の共通の仲間の話になる。先ずは咲子が口火を切った。
「美沙(みさ)はさぁ、たまに会うけど、今も榊(さかき)を名乗っているのよ。夫婦別姓とか言ってさ」
「相変わらずだなー、もういい加減にしなって言ってやれよ」
祐介は、そう心にもない言葉を吐いた。祐介は内心、美沙の今の様子を知りたいと思っていた。たぶん咲子も祐介のそういう気持ちを察してか、美沙の話を持ち出してきたのだろう。
「でも、最近は子供の将来のことを考えて、一応は旦那の籍に入ったみたいだけど」
「へぇー、そうなんだ……。良かったじゃない」
これも本心ではない。
「結婚して暫(しばら)くは、旦那が美沙の戸籍に入っていないのを知らなかったみたいよ。美沙が仕事を辞めて、健康保険証を一緒にするとき分かったみたい」
祐介は、本当にそういうことが起き得るのかと、半信半疑ながらも言葉を返した。
「なに、それ……。それでよく夫婦やってられるよな。俺なら我慢できないけどね」
祐介は、言ってしまってから、自分の未練がましい心を見透かされたりしなかったかと後悔し、「それでも仲良くやっているのだろうから」と言葉を繕った。
「そうよね、べったりなんだから」