耐寒訓練

その年の十二月八日、日中戦争に引き続いて太平洋戦争が始まった。「鬼畜米英」「撃ちてし止まむ」「欲しがりません勝つまでは」などの標語と共に、国内は戦時色一色に塗りつぶされていった。学校では若い男の先生が次々と出征していった。

冬の寒い日に「耐寒訓練」があった。男女とも上半身は裸、下は男子は半パンツ、女子はブルマーだけで運動場をトラックに沿って行進をした。全校児童(一、二年の低学年はどうだったか覚えていないが)の半数が外回り、半数が内回り、それぞれ三列か四列くらいの縦隊で、すれ違いながらの行進だった。みんな胸を張り、大きく手を振って寒さに耐えながら歩いた。

小学校でも高学年になると女子の中では胸のふくらんだ子もいる。大勢の目にさらされて、自分の胸をかばうようにして歩く子に「胸を張れ!」と先生の号令がかかった。ペチャンコの胸だった私はすれ違う時、仕方なく胸を張って歩く子を見て「かわいそう」といたたまれない気持ちだった。

当時は「男女七歳にして席を同じうせず」といって男子と女子は組編成も別々なのに、「耐寒訓練」はみんな一緒だった。戦争中だったから、とやかく言っていられなかったのだろうか。今なら人権問題だ。

体の弱い子といわれながら、両親や先生たちのおかげで「六ケ年間皆勤」の賞状をいただいて、私は小学校を卒業した。

 

4 ふるさと

よく晴れた日には、東の空に生駒の連山がくっきりと見える。その向こうに父のふるさとがある。子供の頃、私は毎年の夏休みを父の生家ですごした。

学校が休みに入ると間もなく、私は父に連れられて田舎の小駅に降り立った。駅を出て、軒の低いわらぶき屋根の集落をぬけると広い国道に出る。

そこからは一直線の長い長い道を歩く。舗装された広い道路の両側にはどこまでも青々とした田んぼが広がっていた。たまにのんびりと牛車を引く百姓のおじさんに出会うくらいで、全く人の気配がない。真夏の太陽が、父のカンカン帽と私のかぶったむぎわら帽子に、容赦なく照りつける。

歩きくたびれて、途中で何度か「おんぶしてよー」と叫ぶが、父は聞こえぬふりで先を行く。国道が小さな流れと出合う所では、それをまたぐように道が小高く盛り上がってはまた下る。そうした「山」をいくつか越えると遮るもののない青い野面(のづら)の彼方にようやく白壁の土蔵が小さく見えてくる。父の生家だ。

「まぁまぁよう来たな。暑かったやろ」

伯母やいとこたちに迎えられて、懐かしい田舎の家の匂いを胸一杯に吸い込む。黒光りする太い大黒柱。焚き口がいくつもあるかまど。去年と変わりない。荷物を解いて着がえをする。そして夏休みの間、私は田舎の子になるのであった。父は私を伯父、伯母に預けると翌日は大阪へ帰って行った。

【前回の記事を読む】「虚弱児」ということで大阪市が運営する淡路島の郊外学園でひと夏を過ごすことに…