第1章 幼い日の思い出

4 ふるさと

田舎の暮らしは私にとって何もかもが新鮮だった。

ある日、不意に鶏がけたたましく鳴いた。なんだろうと思って鶏小屋をのぞくと、わらの上に生み落とされたばかりの卵が、鮮やかな白さでころがっていた。掌にのせてみるとまだ温かい(鶏が同じ鳴き方をする時は、必ず鶏小屋に卵があった)。

村の外れにあまり広くない川があって、よく水遊びに行った。水につかった足が何だか痛かゆい、と思って足をあげて見ると、ひるが吸い付いていて、そこから血が流れていたりした。

夕方近くになると納屋から、自分の姿が隠れる程大きく束ねたわらを、両腕一杯に抱えて風呂の焚き口まで運ぶ。大きい従姉が井戸から何度も運んで風呂おけに満たした水を、わらを燃やして焚くのだ。丸めて焚き口に放り込んだわらは、すぐめらめらと燃えつきる。

だから付きっきりで、燃やし続けなければならない。わらの燃える匂いに包まれ、真っ赤な炎を見つめながら、ずい分長い間焚いていたと思う。やっと焚けた頃は、もう汗ぐっしょりになっていた。

夏休みも終わりに近づくと、そろそろ家が恋しくなる。門口へ出ては、西の空に連なる生駒の山を見つめ、ひたすら父の迎えを待つ。

父が亡くなって何年かたって、父のふるさとを訪れた。かつて、歩きくたびれた長い長い道は、昔ののんびりした面影を全く失って、激しく車の行き交う幹線道路になっていた。田舎暮らしもすっかり変わり、もはや、わらで風呂を焚く家はなかった。

今でも何かのおりに、わらを焼く匂いに出会うと、何故か無性に懐かしい。それは、遠い日の記憶につながる「私のふるさと」の匂いなのかもしれない。

5 孫の祭り

子供の頃、春になると田舎にある母の実家(さと)へ祭りに招ばれて行った。祭りには大勢の親類の人達が集まってそれは賑やかだった。

「おう、朝子ちゃん大きいなったな。何年生になる」と、大人達は一様に同じ事を尋ねた。それは久し振りに会う挨拶のようなものであった。「四月から〇年生」と私は聞かれる度に、にこにこと答えた。賑やかなざわめきが楽しく、普段滅多に会うことのない、いとこ達と遊べるのが嬉しかった。

そして肝心の祭りのことはさっぱり覚えていない。後年、田舎の伯母の訃報をうけてかけつけた。悲しみに沈んだ人々の間を、亡くなった伯母の幼い孫がわけもわからずはしゃぎ回っていた。

いつにない沢山の人の集まりが嬉しかったのだろうか。「葬式は孫の祭りや」母の末弟に当たる叔父が誰にともなく呟いた。その叔父ももういない。そして「孫の祭り」という言葉だけが、いつまでも私の耳に残っている。