この言葉が出た瞬間、それまでコソコソと誰が作成したのかも分からぬ「陰の案」が「米国政府が直接、間接に関与してでき上がった日本への表の案」に変容した。
それまでペテン師たちの動きを陰に陽に手伝ってきたと思われる大使館員たちは、
「よーし、これで表立って動き出し、交渉が上手くまとまれば自分たちの大きな手柄として実績を誇れるぞ!」
と突如有頂天になった顔つきをし出した。
そしてそれまで空しく日々を送っていた我輩のご主人もまたこの提案をまるで天啓のように受け取り、
「そうか、やはりこの案は米国側もウィンター氏が裏で関与してくれていたに違いない。ならばこの案を至急日本に送って、検討してもらおうじゃないか。」
ということになり、大急ぎで日本語案を整理して外務省に送ることになった。
それまでにほぼ日本語案はできていたのだろう。会談の翌十七日には外務省本省に「両国諒解案(仮称)」として送付し、その詳細な説明もその翌日の十八日に送付した。
これが世に謂われる【日米了解案】である。
その中身の概要は、
「日米両政府は左記七点に関してその考え方を明確にすることで国交調整が可能と判断する。まだ全ての問題点を網羅しておらず不備な点も多々あるが、それは今後の協議の中で詰めるとして、概ねこの線に沿って交渉を進めたい」
と日本側の基本的了解を求めた。