第2章 父と母のこと
父、羅聖鳳(ナソンボン)のこと
家に少し経済的に余裕ができた頃でしょうか?
父は毎年夏になると母と小さい弟二人を連れて、長野県や群馬県の温泉湯治に行っていました。母が少し病弱だったからでしょう。胃下垂があり、あまり太れない体質だったので父はその治療を兼ねて湯治に出掛けていたのだと思います。
いつも湯治に行くのは弟二人と両親でした。両親は私が一緒に行きたくとも連れて行ってくれませんでした。しかし私が三年生になる頃、初めて万座温泉の湯治に連れてもらった記憶があります。その時白根山が見え、いろいろなところから湯煙が出ていた光景を忘れることができません。
考えてみますと、なんと贅沢なのでしょう。
父はやはりとても家族思いだったのです。
私は二人の姉とは年が離れていて一緒には住んでいなかったため、兄二人弟二人の真ん中の女の子として育ちました。だから、結構わがままだったと思います。小さい頃、こたつの中でうたた寝していると、父はいつも私を抱っこしてお布団まで寝かせてくれました。
子供が多かったので母はどちらかというと厳しくいつも棒を持って私達子供を追いかけていたような記憶がありますが、父は体罰をせず、穏健でした。子供を叱る時は大きい声を出していましたが、決して手を上げることはしませんでした。今思うと子供の人権を守っていたように思うのです。
父の姿から、男性は弱い子供や女に手を上げることは決してしてはいけないことであり、もしそのような行動があれば、その人格を疑うと思うようになりました。
そして私は結婚する時、夫に「もしあなたが私に手を上げるようなことがあったら、私は結婚を続けることができない」と、はっきり言いました。父親のその姿勢が、娘である私の生きる基本になったと思います。今この歳になって尊敬の念にかられます。
夫婦仲が良かったことも思い出されます。
一九五三(昭和二十八)年頃、映画『君の名は』という映画が流行っており、当時父が母を自転車の荷台に乗せ、街の映画館まで通っていたのを、私は子供心に素敵だなと思っていました。
当時近所の日本人の家庭の夫婦がそのような行動をすることはなかったと思います。私はちょうど小学生ぐらいで、近所のおばちゃんに「お父さんと、お母さんが仲良くっていいねー」と言われたりしました。それはジェラシーかもしれないと思いました。
やっぱり両親は外国人なのです。周りには夫が妻を自転車に乗せて映画を見に行く人はいませんでした。私は内心とっても嬉しかったのを覚えています。
私は八十近い年齢になり、私達夫婦は両親よりもっと夫婦仲が良いと自負しています。今は脳卒中になり夫からの介護を受けています。病院には毎日面会に来てくれました。彼のサポートがあるので今があります。両親の生き様が自然に子供に移るのですね。