田島の手をささえる保と田島の顔をと見こう見し乍ら野田軍医は
「何、大した事はない。あとは引受けた」
と軽く言った。
保は全身の力がさっとぬけて行く様だった。さて今度はG・P・Uか。たかが一人の二十三才の捕虜の端くれなのに。作業隊の居残りが五月の太陽を浴びて着肥った雀を捕えて食おうと石を投げ合っている。
山下軍医は何も言わぬ。保も然り。軍医は夜尿症患者に催眠術をかけブルンクを驚かしている。中には入院したさに軍医の暗示前に寝てしまう気の早い奴もある。保は疥癬に硫黄軟膏を塗らせ、自己血清と称する患者の靜脈から血を採りその尻に輸血する療法をしている。
昼前の一と時ソ連への患者報告を書き、請求薬品を帳面に書いてから食事もせず、独乙人の住む大きな石造バラックの脇を食後の虱とりに余念ない姿を見乍らG・P・Uへと歩を運んだ。
金が出て来て「今留守だ。又呼んだら来給え」と両開扉を閉めてしまった。昨晩あれ程返答の言葉を口ずさんでいたのにからかわれている気がし、とぼとぼと三病棟うらの川辺へ佇んだ。
楊柳が緑の蔭を和やかにおき鉄柵を隔てた川向うの外国地方人抑留所から楽し気な子供のあそび声が聞えてくる。
去年コメディを演ったあのユダヤ人達は今年はどんな事をして喜ばせて呉れるだろうか。
中に女優が居り、クラブの楽屋で保が通訳して日本人画家にポーズをとり画かせたが彼女が何時ぞや喉を痛めて黒オーバーに黒長靴をぴったり身につけ普通の女抑留者には思いもつかぬ白粉―歯磨粉かもしれない―をつけおまけにルージュまでぬって医務室に診断を受けに来、ドクター以外の男は全部外へだされたがオーネゾルゲと保はまあという事になって、ドクターの向い合せに坐った彼女の舌が「舌を」と言うドクターの口調につれて生き物の如く長く長くのびたのに驚いてオーネゾルゲと顔を見合したが帰りしなにウインクされオーネゾルゲに背中を突つかれた事があったが、まだ彼女は彼処にいるだろうか。
*)ニッチェボー:ロシア語:細かいことは気にしない 「どうでも構わない」「大したことじゃない」の意味