その歴史の長さから、仏教は様々な形に変遷しており、また独自の仏教用語は難解で多様化していて、理解することが困難なものとなっていました。いろいろな仏教の書物を読めば読むほど分からなくなるのです。ましてや解説が一定していないということもあり、誰の言葉を信じていいのかさっぱり分からないのです。

当然、僕の仏教に対する知識が圧倒的に不足しているせいではありますが。

そこで始まりの仏教だけに焦点を当てることにしました。もちろんそこでも聞きなれない仏教用語は難解であります。それでも様々な解説書を読みあさり、何とかおおまかな姿をとらえることができたような気がします。

そんな初期の仏教について学んでみて、得られた結論。

それは、ゴータマ・ブッダが始めた初期仏教は、もともとは実践的な自己心理学であったということ。それも、「とらわれの自己」から「自律した自己」への自己変革の心理学だということ。

言い換えればそれは、自己の成り立ちと自己へのとらわれの現実を知り、そこからの脱却を目指し、そして新たな自律的な自己へと自らを作り変えることを目標とする、そのための手段としての心理学というものであります。

けれどそこでは言語化することが困難な現象体験を伴うため、それを何とか言語化して伝えようとしたときから、人々は言語に伴う錯覚に惑わされ、当時としては理解することに限界があったと思われます。

特に、十二支縁起においては、ゴータマ・ブッダの教えを正しく理解できる人がいなかったか、誤解されて伝わった可能性があると思われます。

あるいは、正しい教えを口伝するうちに、後世の文字化する時代までに誤って解釈されてしまった可能性があります。

いずれにしても、十二支縁起を合理的に理解することは今もってできていないのが現状です。

それを本書でひもといていきたいと思います。

第一章 十二支縁起の新解釈

難解とされる十二支縁起

十二支縁起(十二支縁起の法、十二支縁起の理法)は、ゴータマ・ブッダ本人が語っているように、理解することが困難な心理法則だと思われます。

『私の得たこの法は深遠で理解しがたく、悟りがたい。静穏で卓越し思考の領域をこえ、微妙であり賢者によってのみ知られるものである。……

……縁起の道理は理解しがたい。

……常識の流れに逆らい、精妙で深遠で理解しがたい。』 (サンユッタ・ニカーヤ 6・1・1)

一つの話の中で、「理解しがたい」と三度も繰り返しています。