いろいろなバラエティの差異を無視するようだが、これで十分に共通の要素を読み取ってもらえると思う。単純な事実を繰り返しておこう。この思考実験は、列車を外界から全く独立した、いわば閉鎖空間とみなすことで成立する。すべての物理現象がこの内部空間のみで完結し、まわっているものと見なしている。でも、そういうことがあり得るものだろうか。ホームで待つ列車に乗り込み、出発の瞬間、私たちは、立っていれば足の裏、座っていれば椅子に預けているお尻や背中に衝撃を感じる。加速すれば、全体に引きずられる感じだったり押されている感じだったり、とりどりに体の感覚を味わうことになる。しかし列車内が物理的に自立した異空間であるなら、私たちはその「空間」の動きと一体化するのであって、床や背もたれからの微細な力の変化を示す信号はむしろあり得ないことなのではないか、との疑問が生じる。
運動系という不思議な空間は存在せず、地面という静止系の上を列車という物体が移動し、その列車の中に人がいる。つまり車内の人は列車という運動系ではなく、地面という静止系の上の、間接的にではあるが、紐づけられた存在として考えなければ、全体をきれいに語ることができないのではないか。発車や加速度を知ることができるということは、結局それが正解なのではないか。
私たちは窓から外の景色を眺めることができるし、外の音も聞こえる。外から中の様子もうかがえる。ここまで、いろいろな物理的事象を連続的に語ることができる空間で、時間の因子だけが独立し得ると、そんな不思議なことがあり得るものだろうか。
この手の思考実験で理解した気になる人が多いということは、以上の説明で相対論の賛成者が(反論に)納得することは難しいということなのだろうが、一応そこが結論として目指す方向になる。
まず前提として、これは思考実験として成立しないことを確認しておきたい。なぜなら、動く列車の前と後ろから発せられた光は、列車の中央に同時に到達することはないからだ。これだけでは、ニュートン側の思考をなぞっただけに見えるかもしれない。しかし実は相対論が正しい場合でも、ニュートンが正しくても、どちらでも成立しない。あるいは最低でも相対論の側は、これが成立することを証明する必要がある。