第1章 幼い日の思い出
2 父のこと 母のこと 祖父母のこと
母のこと
裁ち板を広げて針仕事をしている母、二階の南側の部屋の日溜まりで、せっせと編み棒を動かしている母、部屋一杯に綿を広げ、縦に横に重ねてふとんを仕立てている時の母の姿が目に浮かぶ。
格別手を取って教えられたわけではないけれど、母と同じことを私もして、子供たちを育ててきた。私の子供たちの小さいころの服はたいてい自分でミシンを踏んだ。見よう見まねで覚えたやり方で、家族のふとんは全て自分で仕立て上げた。まだ今のように物があふれている時代ではなかったからかもしれない。
「ちょっとあんまさんを頼んできておくれ」
子供のころ母に言われて、私は隣の家の角を曲がって七、八軒向こうのあんまさんの家までよくお使いに行った。父もまた、よく肩を凝らした母のあんまをした。私たち子供も「百たたいておくれ」とか「五十でいいから」と言う母の肩たたきをした。
無口な母だったが、折々に私は母の遠い昔話を聞いたことがある。
「田舎の小学校に通っていたころは成績も良くて、何かの総代や代表にはいつも一番に選ばれていた」
と話す時の母の目はイキイキと輝いていた。またそのころ、白米の弁当の子が羨ましく自分の黒い麦飯の弁当が恥ずかしくて、隠すようにして食べていたことなども話してくれた。
印刷の事業をしていた叔父(母の継母の弟)の仕事を手伝っていた若いころ、玄界灘の荒波を船酔いに苦しみながら乗り越えて、上海から揚子江を一週間もかかってジャンクでさかのぼり、仕事の為に叔父の家族と共に重慶まで行ったこと。
また「向こうでは、まんじゅうは食事やった」と聞いて、甘いあんこのまんじゅうを想像した私は、「いいなぁ」と子供心に思ったものだが、今でいう肉まんのようなものではなかったか。私の知らない大正のころの母の話だった。
明治生まれの母は昔、髪油をつけていたのは覚えているが、パーマをかけたことも白髪を染めたこともない。お化粧をしたのを見たこともなかった。そのせいかどうか、いつも年よりずっと老けて見えた。
口数が少ないせいもあってか、私の夫は母のことを「まるで仏さんのような人や」と言う。しかし亡くなった父は、自分の意見をはっきり言わない母を「頼りない」とこぼしていたこともあった。母は今、八十六歳の老いの身を私の弟と一緒に暮らしている。