祖父母のこと

私が物心ついたころ、父方の祖父母も母方の祖父母もすでにいなかった。ただ母の継母である祖母が、自分が生んだ息子たちと共に遠く広島に住み、私たちはこの祖母を「広島のおばあちゃん」と呼んでいた。

私の姉のお宮参りに、この祖母が生後ひと月の赤ん坊の姉を抱いて写している写真で、顔だけはよく知っていた。母の生家のお盆の墓参りや、春の祭りに顔を合わせることがあったが、親しく話をしたことはなかった。

一度だけ家へ訪ねて来てくれたことがあったが、口数の少ない温厚な人だった。この祖母が亡くなったのは、私がはたちのころである。私はもともと、祖父や祖母には縁がうすかったのかもしれない。

3 小学校時代

初めての家庭訪問

小学校の一年生になったのは昭和十二年の春だった。入学式の日、ちょっぴり緊張しながら教室に入って、決められた席に座ってからぐるりを見まわした。知っている子は誰もいない。

それに周りにいる子がみんなかしこそうに見えて、心細くなった。やがて受け持ちの先生のお話が始まった。先生の顔を見つめているうち、「どこか、うちのお父ちゃんに似てはる」と思い始めた。するとなぜか、次第に気持ちが落ち着いていった。

それは初めての家庭訪問の日だった。「先生は家(うち)へ来て何を言わはるのやろ」と思うと心配になって、学校から帰ると、逃げるように外へ出て近所の子らと遊んでいた。けれどやっぱり気になってそっと家の様子を見に戻った。家の中はしんとして来客の気配はない。

台所で洗いものをしていた母に「先生は?」と聞くと「ついさっき帰りはったとこや。あんたのことを『いいお子さんです』と言うてくれはったで」と答えた母はいつになく機嫌が良かった。「何か𠮟られるのでは……」とそればかりが気になっていたものだから、何だか拍子抜けがした。

その年の七月には、日中戦争の発端となった盧溝橋(ろこうきょう)事件が起こっていた。戦争の足音は私たちの生活にも確実に近づいていたのだった。

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