【前回の記事を読む】自由と平等の国と言うが…切り離せない「階級」と「進学」に気付いていた坪内逍遙
第一章 日本近代文学の出発点に存在した学校と学歴――東京大学卒の坪内逍遙と東京外国語学校中退の二葉亭四迷
第二節 二葉亭四迷
■二葉亭四迷の受けた教育
名古屋には一八世紀半ばに創立された明倫堂という有名な藩校がありましたが、こちらは明治に入っても漢学を主体にしていたのに対して、明治三年に創設された名古屋藩学校は外国人を教師に迎えて英語とフランス語を教えていました。
江戸末期から明治初めにかけて、廃止される直前の藩(廃藩置県は明治四年)は、時代の変化を読んで洋学教育、すなわち英語やフランス語を武士の子弟に学ばせるようになっていたのです。
ただしフランスが普仏戦争に敗北した(一八七一年、明治四年)ため、洋学の中心は英語となり、やがて普仏戦争の勝利者の言語であるドイツ語がそれに次ぐ位置に収まります。
ちなみに藩校は江戸時代の武士教育に大きな役割を果たしていました。長い平和が続いた江戸時代にあって、武士は戦国時代のような戦士ではなく、幕府や藩を運営する役人だったからです。そうした仕事にはそれなりの知識や素養が必要ですから、藩士であれば基本的に藩校で学ぶことを義務づけられていました。成績が悪いと官職につけない、家督相続が許可されないなどの制裁措置もとられたようです。
江戸末期のデータですが、二十万石以上の藩はすべて藩校を有し、二十万石未満で二万石以上の藩でも藩校設置率は八割を超えていました。
二葉亭はここで一年弱学び、明治五年(一八七二年)に東京に帰ります。東京でどういう教育を受けたのかは分かっていませんが、中村光夫は私塾などに学んで小学校の課程を終えたのだろうと推測しています。
そして父の異動に伴って明治八年(一八七五年)に松江に移り、そこの変則中学で学ぶと共に松江相長舎という塾で漢学を学びます。変則中学というのは、学制(明治五年公布)に定められた中学の規定に合わない学校のことで、合う場合は正則中学となります。ただしここにはやや複雑な問題もあるので、詳しくは夏目漱石を扱う第三章で述べます。
二葉亭が在籍していた当時の松江変則中学では英語が教えられていませんでした。この点について桶谷秀昭は面白いエピソードを紹介しています。
当時松江変則中学と鳥取変則中学は優秀な生徒を派遣し合って成績の競争をさせていたのですが、鳥取中学では英語の授業があるのに松江ではなかったため、松江の生徒はどうしても競争で不利になる。それもあって、松江変則中学でも明治一一年八月に英語科が設けられたというのです。明治初期の頃には学校ごと、都市ごとの差が大きかったことを示す逸話でしょう。