【前回の記事を読む】二葉亭四迷、陸軍士官学校を受験するも3度の不合格。軍人を強く志望した理由とは?
第一章 日本近代文学の出発点に存在した学校と学歴――東京大学卒の坪内逍遙と東京外国語学校中退の二葉亭四迷
第二節 二葉亭四迷
■二葉亭の学んだ東京外国語学校の歴史
軍人志望を諦めた二葉亭が入学したのが、東京外国語学校のロシア語科でした。ロシアの圧力から日本を守らなければ、と考えた二葉亭は、軍人が駄目なら敵を知るためにロシア語を学ぼうと考えたのです。
明治一四年(一八八一年)のことで、陸軍士官学校受験に三度失敗した末の選択ですから、満一七歳になっていました。当時の東京外国語学校は小学校課程を終えたおおむね満一四歳以上の男子というのが入学資格だったので、新入生の中では年長だったようですが、二葉亭の最終学歴となる学校ですから、少し詳しく見ておきましょう。
東京外国語学校は、実は起源から見れば坪内逍遙の出た東京大学と同じなのです。
先に逍遙の受けた教育について説明しましたが、幕末から江戸期にかけて洋学を学ぶ学校として存在していた開成所が、大学南校、南校と名称変遷を経た上で、明治六年(一八七三年)に開成学校となった際に、専門を学ぶ課程と外国語を学ぶ課程が分離し、後者が東京外国語学校として独立したと書きました。
ここに二葉亭は入学したわけです。一方、前者である開成学校は明治一〇年に東京大学となり、近代的な意味で大学を名のる学校に昇格します。それに対して東京外国語学校は専門をやる前段階にあって外国語を修得する学校とされました。つまり、分離独立した際に、開成学校より下に位置づけられたわけです。
東京外国語学校はもともとは英仏独露清韓の六学科から成っていましたが、英仏独は学術語で、これを修めた学生は上級学校(東京大学など)に進学するのに対し、露清韓の三学科は、学校卒業後は実業界に進んだり通訳の仕事に就くといった実用的な意味合いが強く、志願者が十分集まらない可能性があったので、給費制度が設けられていました。
したがって給費目当てで入ってくる学生もいたようです。しかし二葉亭には前述のようにロシア語を学ぶ強い動機がありました。
東京外国語学校が開成学校から分離独立した翌明治七年一二月、英語科がさらに独立して東京英語学校となります。この学校は明治一〇年に東京大学が発足するにあたり東京開成学校の一部と合併して大学予備門に、つまり東京大学に進学するための予科となります。ですから二葉亭が入学した明治一四年には英語科はなくなっていたわけです。
さらに明治一八年、独語科と仏語科が大学予備門に併合されます。つまり、欧米の近代的な学問や技術を学ぶのに欠かせない英独仏の三言語は大学予備門で教えられることになったわけです。
英独仏の三言語を失った東京外国語学校は、同じ明治一八年に東京商業学校(のちに東京高等商業学校、そして東京商科大学となり、現在は一橋大学)と合併するのですが、この学校のうち旧東京外国語学校の部分は翌明治一九年に廃止されてしまいます。