先に二葉亭四迷の最終学歴は「東京外国語学校中退」であると説明した際に、
「東京外国語学校って、今の東京外国語大学のことだよね?」
という問いに対する答は、
「半分は正解だが、半分は誤り」
であると述べましたが、それはこうした経緯によっています。
つまり、二葉亭の学んだ東京外国語学校は廃止されてしまったからです。
しかし、海外の新しい知識をどんどん輸入しなければやっていけない時代に外国語を学ぶ学校がないのはいかがなものかという意見が強く出て、明治三〇年(一八九七年)に、東京高等商業学校(前記の東京商業学校が明治二〇年に改称)の附属学校として、英独仏を含む語学を学ぶ学科が成立します。
そしてこの附属学校が明治三二年(一八九九年)に分離独立して新しい「東京外国語学校」となるのです。この学校が現在の東京外国語大学の直接的な前身です。
言い換えれば、二葉亭の学んだ旧・東京外国語学校は廃止されてしまったので、現在の東京外国語大学の間接的な前身ということになるわけですね。明治前半は学校制度がめまぐるしく変化した時期ですが、東京外国語学校もその例に漏れなかったのです。
坪内逍遙と同じように、二葉亭自身もその変化の真っ只中で学校生活を送った人間でした。しかし逍遙は制度変革で作られた東京大学を卒業しましたが、二葉亭はその改革に反発して学校を中退してしまいます(詳しくは次項で説明)。
けれども彼はこの学校でロシア人と日本人の教授から単に実用的なロシア語を学ぶにとどまらず、ロシア文学にも目を開かれていくのです。
ツルゲーネフなどのロシア近代文学を読んだ二葉亭にとって、文学とは単なる趣味ではなく、「文学愛好家」のためのものでもなく、実人生と直結するものだったのでしょう。それは、当時のロシア知識人にとって西欧の近代的な知識が後進国ロシアで実際に生きていくこととどうつながるのかという深刻な問題に直結していたのと同じだったと言えます。