さて、二葉亭は明治一一年(一九七八年)初めに中学を退学して東京に移り、秋に陸軍士官学校を受験しますが不合格となります。翌年と翌々年にも受験したものの、やはり不合格でした。
陸軍士官学校とは、陸軍の士官、つまり高級軍人を養成するための学校です。軍隊に関する知識も特に戦前の日本を理解するためには欠かせないので、ごく簡単に説明しておきますと、戦前の日本には陸軍と海軍がありました。(空軍はなく、陸軍と海軍がそれぞれ飛行機部隊を所有するという形をとっていました。)
軍人は、士官(将校とも言います)と兵士に分かれていました。士官は少尉以上で、軍の指揮や作戦の考案にあたります。兵士は軍曹・曹長以下で(伍長・軍曹・曹長を下士官と言います。士官のすぐ下の位階ということですね)、士官の命令に従って戦闘行為に従事する立場です。
つまり、二葉亭は高級軍人になりたかったのです。第二次大戦後の日本では軍隊や軍人をタブー視するような雰囲気がありますが、この時期の高級軍人はそれなりの職業であり、士官学校は学費がかからなかったので、同じ措置がとられていた師範学校(詳しくは第三章で説明)と並んで貧しい家の男子が多く志望する学校でした。
しかし、二葉亭が軍人志望だったのは経済的な事情からだけではなく、もっと積極的な理由からでした。
明治八年(一八七五年)に日本とロシアの間で千島樺太交換条約が結ばれたのがきっかけです。樺太(サハリン)は幕末以来日露両属という建前になっていましたが、両国民の紛争が多くなり、結局、樺太はロシア領とする代わりに千島は日本領という形で条約が結ばれたのです。
しかし日本人の間にはこれを不平等で自国に不利な決定とする世論が強く、当時満一一歳だった二葉亭も愛国心とロシアに対する怒りに囚われた一人でした。そのため、軍人になってロシアに対する日本の立場を強化したいと考えたのです。
二葉亭が陸軍士官学校を三回も受験したのは、それだけ彼の軍人志望が強かったからでしょう。軍人養成学校とは言え、学科試験もそれなりに難しい学校でした。不合格は近視のためという説もありますが、最初の二回は学科(特に数学)で、三度目は体格検査で落ちたという説もあります。なお陸軍士官学校については後の章で改めて触れます。