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第二章独身時代、青春を謳歌する―日本復興の熱気の中で
情熱を神戸の繁華街に注ぐ
女の子と一緒に石原裕次郎の映画を観るのが、私のお気に入りのデートだった。『太陽の季節』『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』『錆びたナイフ』。みんな彼女と一緒に観た。中でも神戸を舞台にした『赤い波止場』は大のお気に入りだった。
若さを言い訳にしてはいけないかもしれないが、この時代は私の人生において、もっとも遊んだ時期だろう。悪友たちと一緒に、夜遅くまで飲み歩いた。そうすれば当然、朝がつらい。寝坊して遅刻するのならばまだましだが、ついには会社に行くのが面倒になり、仮病を使って休むことを覚えた。町の病院に行って、「頭が痛い」「腹が痛い」と言っては医者に診断書を書いてもらって欠勤するのだ。
そのうち医者とも顔なじみになり、また来たのかと呆れ顔をされる始末だ。ひどいときには一年間で、決まった休日、年休以外に、三十日以上も欠勤した。よくぞクビにならなかったものである。
久しぶりの帰郷
昭和三十四(一九五九)年、二十二歳の秋のことである。
ある日、仕事が終わって珍しく寮でのんびりしていると、妹から「母が倒れた」と電話が入った。その頃の私は、すっかり熊本の家族のことを忘れていた。中学校を出たときには、自分が長男として家族を守らなければという覚悟をして働き、一年後にはもっと立派になって家族を幸せにしたいと故郷を離れたはずだった。
しかし都会に出ると、そこにはこれまで知らなかった華やかで楽しい世界があふれている。実家での貧しい暮らしなど、思い出したくなかったのかもしれない。今、母や妹たちがどのように暮らしているか、それを直視したくなかったのかもしれない。わずかばかりの仕送りだけでやるだけのことはやっていると自分に言い訳をし、その何倍ものお金を街での遊びに使っていた。
お盆や正月の長期の休みにもほとんど帰らず、家族に顔を見せるよりは、神戸の街で仲間たちと遊んでいたいと思った。家族に、母に、申し訳ないという気持ちさえ起きなかったのは、若気の至りというだけでは許されないだろうか。
そんな私の生活を知ってか知らずか、母は何も言ってこなかった。上の妹は、中学校を出ると地元の駅の売店で働いた。下の妹はまだ小学生で、女三人の暮らしは厳しかっただろうに、それでも金を無心されるようなことは一度もなかった。それよりも、たまに届く手紙には、《元気でいるか、体に気をつけるように》と、母親の愛情だけがあふれていた。
たとえ産みの親でなくても、赤子のときから私を育ててくれた母の愛情は何ものにも代えがたいものであったのだ。
翌日、そんなことを沸々と思いながら、列車に乗って熊本へと向かった。当時は当然のごとく携帯電話などなかったから、互いにやり取りすることも難しく、一度連絡が入って以降の母の状態はわからない。どんな容体だろうか、命は助かるだろうかと、ただただ想像することしかできず、母に会いたいと気持ちばかりが急いた。