第二部 カフェ「MICHI」が誕生してから

【二人目の女性の物語】「赤いくつ」の歌

■立て直す決意

舞ちゃんには知的障害がある。望まれて出生した舞ちゃんは、障害と診断されて以降も両親に愛されて成長していた。ところが6歳のある日、パパが交通事故で他界してしまったのだ。

舞ちゃんは、生前のパパと、「赤いくつは~いてた おんなのこ……」とよく歌っていた。

パパがいなくなったことが理解できていない舞ちゃんなのに、赤いくつの歌は忘れずに歌うことが、ママの涙を誘うのである。

紗莉が、夫のいない寂しさ、舞ちゃんの未来への不安、自分のこの先の不確実な生への恐れによって、あの日、踏切でよからぬ行動を取ろうとしてから一年が経過した。

紗莉は、亡き夫に手を合わせるたびに、〈舞ちゃんときちんと生活しなければ、それを夫は望んでいるはず〉と考えるようになった。

〈仕事しよう、社会との接点を持とう〉。

紗莉はもともと仕事をしていた出版会社で働くことを決めた。舞ちゃんの面倒を見てくれる人が必要だと思った紗莉は、横浜で一人暮らしをしている実母に同居してもらい、療育園への通園を依頼するのであった。

■狼狽

母は、療育園で知的障害のある子への接し方を学ぶなど、心を込めて舞ちゃんに向き合っている。その母の言動に、違和感があると思い始めたのは、それから数か月後のことである。

母・礼子70歳の時であった。

土曜日のある日、紗莉は、舞ちゃんと母と一緒に近くの公園にいった。

「赤いイチゴさん、赤いイチゴさん」

舞ちゃんはまるで歌っているようだ。

「お母さん、ケーキ屋さんに寄るわね」

「そうしよう、私もケーキ食べたいわ」

そう言って歩き出した母と紗莉。いつもの道だ。あの十字路を右に曲がればケーキ屋さんが見えてくる。すると、母が左に曲がろうとするのだ。

「お母さん右だよ」

「ごめんごめん、考え事をしてた」

母は照れ笑いをした。翌日、夕食の時に、何度も同じことを聞くのだ。

「紗莉、明日療育園はお休みよね」

「そうよお母さん」

時間をおいてまた同じことを聞くのであった。覚えていないこともある。そんな母ではなかったのに。歳には見えない若々しさで、テキパキと行動し、いつも紗莉を前向きにしてくれるのに。〈どうして〉。ふと認知症が頭をよぎった。

そこへ、療育園のスタッフから電話が入った。

「お母さん大丈夫ですか? 最近なんだか元気がないのですが」

母からは何も聞いていない。

「実は以前、足を滑らせて転ばれたんです。どうやら頭を打ったようなんです」

紗莉は、早く病院に行かなければと慌てて電話を切った。

診断結果は慢性硬膜下血種。転倒した際に頭を打ったことが原因であった。

直ちに血腫除去術が行われ、認知症の症状は消失した。母は溌剌とした元の母に戻り、舞ちゃんを慈しみ通園するのであった。 

■善意の輪

久しぶりに三人で公園に行くことにした。青空に木々の緑が眩しい。

少し行くと、三人の小学生が「お前が声をかけろよ」「お前だろ」「いやお前だろう」と押し問答をしている。

どうやら、街路樹のたもとにいる老人が気になっているらしい。母が「どうしたの」と声をかけた。

「あそこにいるおばあさん、認知症かな? と思う」

「どうして?」

「行ったり来たり、信号を渡りかけて引き返したり、おばさんどう思う?」

母は、「君たちえらいね、おばあさんのことを気にかけてくれてるんだ」。

少年たちは、まんざらでもなさそうな表情をしている。母が老人に声をかけた。

「どうかされましたか?」

きょろきょろして返事がない。その時認知症なのだと確信した。

少年たちに、「認知症みたいね、警察まで一緒に行く方がいいね」。

「僕たちも一緒に行くよ」

警察までの道中、少年たちは今学校で取り組んでいる課題について話してくれた。

「認知症の人が車に轢かれそうになったり、行方知れずになることが、学校でも話題になっている、僕たちが認知症かもしれないと感じる人がいたら、まず、声をかけてあげようってことになったの」

 「先生が認知証の模擬患者さんになって、声のかけかたなんかを訓練してるんだよ」

紗莉は母と顔を見合わせて、深く頷くのであった。

〈このような取り組みを通して、人への関心が育まれるのよね、もっともっとこの善意の輪が広がるとよいのに〉と思う二人であった。

老人を警察に無事送り届けた少年たちは、警官に褒められて、満足し切った表情をしている。

紗莉と母も少年たちに「ありがとう、私達からも御礼を言うわ」。

手を振る少年たちに笑顔で応えながら「よいところに出くわしたね」。

母は興奮気味に言った。紗莉は、〈ささやかでもいい、手を差し伸べてくれる人が増えれば、障害者も家族ももっと住みやすくなるのに〉と、これまで経験してきたさまざまな場面を、思い浮かべるのであった。

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※本記事は、2022年11月刊行の書籍『MICHI』(幻冬舎ルネッサンス)より一部を抜粋し、再編集したものです。