プチ離婚、父の死 独居の始まり

「両親が離婚した」。そんな衝撃的な話を聞きました。詳細は分かりませんが、母は自宅を離れて老朽化したアパートの一室で絵を描きながら静かに暮らしていました。しかしこの生活は長くは続かず、離婚解消。元のさやに戻ります。これには既に述べましたが「調整力」を身につけた妻が相当動いたのだろうことは想像に難くありません。

ようやく落ち着いたかと思ったら、母から電話があり、「おじいちゃんが入院した」。お見舞いにいくと、ベッドで休んでいました。

しばらく日数が経過したとき「おじいちゃんが死んだ」と。

すぐに駆けつけると冷たくなった父はベッドに横たわり母は医師から解剖の承諾を得ようとしていました。通夜葬式が終わり、家族や親族がいなくなった寂寥感のなかで母の一人暮らしは始まります。それは阪神淡路大震災やオウム真理教事件があった1995年で、母は62歳でした。この時点では母のADL(日常生活動作)は自立、認知症はありませんでした。

2007年から少しずつ状態が変化し、2012年が一つの境目になった

母の一人暮らしが始まった1995年以降、大きなトラブルもなく、安定した生活を営むことができました。

しかし2007年にはこれからの状況を予見させる一つの大きな出来事が起きました。それは「地域の絵画サークルからの脱会」でした。既に述べたように母は絵を描くのが好きで、ひいき目かもしれませんが、その力は相当なものでした。母は、師匠が組織する地域の絵画サークルに入っていて、そこで会計の仕事も任されていたようです。

この活動は、認知症予防にもなっていたし、また、生きがいにもつながっていて、この会を通じての関係性の広がりが生活の安定性にも寄与していたようです。それがある時「私、やめたから」と。詳細は分からないのでこれは憶測の域を出ませんが、認知症の進行(発症)に伴う、トラブルが組織の中であり、これが引き金になって組織からの脱会につながってしまったのではないかと感じています。

結果論ですが、このことはこれからの生活、特に認知症との関係で見ると大きな課題を(はら)んでいたと考えることができます。後に述べるように認知症と社会的なつながりは密接不可分の関係なので、この退会は大きな負の意味をもってしまったと言えるかもしれません。なのです。

ただ、この後も生活する上での大きな問題はなかったのですが、2012年になり、事態は大きく変化することになります。この時の年齢は80歳。認知症の発症率が急カーブで上昇する年齢になっていました。

 

注1:ここは以下の文献が参考になる。稲垣栄洋「はずれ者が進化をつくる~生き物をめぐる個性の秘密」 ちくまブリマー新書 初版2020年、pp.156-159。この中で「弱いホモサピエンスが生き残り、強いネアンデルタール人がいなくなったのは何故か」の問いの答えが素晴らしい。共感とは何かを教えている。

【前回の記事を読む】高齢になり出来ることが減っていく両親…。ギャップを減らす「子が親を育てる」という考え。