第一部 認知症になった母の人生

第1章 母の人生について認知症前まで

思い入れで子は育ち、親は育てられる

父は父で娘への思い入れは強く「将来、長女は弁護士」ともいっていました。その娘が素性が分からない私のような者と結婚したのですから、その時の痛み、苦しみ、憎しみは相当だったようです。

ただそれは私には一度も見せたことはなかったのですが、ある日、帰宅した父が血だらけに。どうも、娘の結婚のことではらわたが煮えくりかえっていたのでしょう。やめればいいのに、チンピラをかまい痛い思いをしてしまったのです。

親の思い入れで子は育ち、そしてその思い入れという愛情で育った子に親は育てられる。ただ、その育ち上がった姿は親が望んだものではないことが多々あるかもしれません。

しかし、その望まなかった姿をみて、親は改めて育つのです。これで良かったのだと……そしてその望まなかった姿にもかかわらず、親はそれを「成長」とさえ呼んでくれる。

その親の愛情は微動だにしないのですが、頑丈そうにみえても実はすごくナイーブでデリケートなものなのです。しかしそれを決して子どもには見せない、強がりも持ち合わせています。

子は(かすがい)

注1なんて言う言葉は、今の若い人たちには死語かもしれません。お父さんとお母さんは私から見ていても決して仲睦まじいとは言えなかったかもしれません。けれども生い立ちも生き方もその哲学も違いながら、必死に家庭を守ってきたというところなのでしょうか。

ある日お父さんは、自分の蓄えを使い山梨県の韮崎という場所に土地を購入し一軒家を作るのです。「ここでデイサービスをするんだ」と。韮崎市役所にも相談に行っていたという話を後日談として聞きました。それは私が向き合う老人福祉の仕事への応援だったことも後に聞きました。私の応援というより、娘の応援であったのかなと思います。

母はそこで私たちの家族、妹の家族が集う日の絵を残しています。母は有名な美術団体の展覧会の絵画部門に出品するほどの絵描きであり、地域の絵画サークルにも足を運び、パートで得た金で画材を買っていました。父と母、それぞれがあまりにも独立心や自立心が大きかったことがちょっといざこざを引き起こしていたのかもしれません。