私が一人のとき「平瀬、車の免許欲しくないか」と聞かれ、一ヶ月間の車の訓練命令がでたので、同期の中では早くに免許を取得した。各部隊で多く使われているストップウォッチの故障も、各自衛隊から私がいた器具班に入ってきた。自衛隊内では修理できないため、町の時計屋さんに依頼していたのだ。
私が見て直して「修理完了です」と言うと、業務班長が半信半疑で「これほんとうに大丈夫か?」と言いながらも、完了で処理していた。「いいヤツが入ってきた」とも言われた。私は稼業中に双眼鏡などの整備は殆どしないで、時計修理を公然としていたときもあった。
班長は気さくな人で私がタバコが無いと分かれば、俺のを吸えと言ってサッと出し、「おっ、休憩だ。お茶飲め」と言って自らみんなのお茶をいれる人であった。
元々足が弱く朝の点呼の後の駆け足が一番苦手だった。今日は足が痛い、体調が悪いと言って休んだこともある。駆け足をすると、半日ボーッとなるのだ。
上半身裸になって先頭を走る隊長が、列の中から私を見つけると「平瀬、列外っ」と言う。列から抜けて、走らなくてよいのだ。規律を重んじる中にあって特別な過ごし方をしていたと思う。
結局は自衛隊に性格も合わず、階級も上がりそうもなかったため、二年八ヶ月で退職し、再び札幌の時計屋に戻ったのである。
そのとき班長から「平瀬、困ったことがあったら、俺んとこへ来いや」と言われていた。それがほんとうに困って四年後に再会し、助けてもらったのだった。
自衛隊は、誰でも一度は体験してみると大いに勉強になると私は思う。集団生活の中で、男でも針仕事や洗濯など、当たり前のことではあるが、自分のことはすべて自分で行う。誰もやってくれない。生きてゆく基本的な事柄を、身に付けるところでもあるのだ。
触診の痛み和らぐ手の温み
就職で青函連絡船へ
昭和四十二年十月、日本中どこへ行っても、勤め先を言えば誰でも分かる大きな企業へ行くと決めて、青函連絡船に初めて乗った。心機一転の心意気で乗った。
文無しでビニールケース一つ、これが〝私の原点〟である。何があっても何かを失っても、この原点に戻れば、元だと自分に言い聞かせてきた。北海道内では親の影が見え隠れするため、何とかなると思って遠くへ離れることにしたのである。
神奈川県の川崎駅ホームから直通の、工場への専用口を見つけたが夕方六時を過ぎていたため、その日は近くの旅館に泊ることにした。部屋の入口にスリッパを二足置いて下さいと言われ、その意味は分からなかったが……。