私の読書遍歴
ある数学教授
今、富士山頂にドームはない。人工衛星の打ち上げで、凡ての観測ができるようになっている。
当時、藤原寛人プロジェクトチームは、富士山頂に命がけでドームを建てたのである。更に、新田氏は終戦直前には、満州新京の観象台官舎にいて、妻と愛児三人と離別しなければならなかった辛い経験をもっている。新田氏は当時のことを殆ど語られていないようだが、どんな思いであったのだろうか。
先ず、その時、二度と再び生きて妻子と会うことは、叶わないことを覚悟されたのであろう。その後、新田次郎氏は昭和三十一年『強力伝』で直木賞を受賞、『縦走路』『孤高の人』『武田信玄』(吉川英治賞受賞)等を発表、昭和五十五年二月、心筋梗塞で急逝。没後、その遺志により「新田次郎文学賞」が設けられている。
父の死後、一年余り経った頃、正彦氏は、父が生前毎日新聞に連載していた「孤愁〈サウダーデ〉」の取材旅行のために行ったことのあるポルトガルに二週間ほど旅行している。詳しくは『数学者の休憩時間』に載っているが、正彦氏は父が取材に行った時に残した「僕の宝物」と言っていた取材ノートを持って、父と同じルートを旅したのである。
特にこのポルトガル人特有の感情を表わす「サウダーデ」という言葉を求めて。また父の思い出を再現したいという想いも込めて、ポルトガルをほぼ一周廻ったのである。
正彦氏によれば、サウダーデとは、望郷、懐かしさ、会いたいが会えない切なさなどがみなこの言葉の中にあるということである。結局、この「孤愁〈サウダーデ〉」が新田次郎氏の絶筆となる。ただ、彼の死後、あと二ヶ月分ほどは、新聞に穴を空けないために書き溜めがされていたという。実に忠実な作家である。
その他前掲の『若き数学者のアメリカ』には、コロラド大学の助教授をしていた時に、大勢の学生達の真似をして、ストリーキングをしたことが、数頁に亘って書かれている。日本では考えられないことだし、見つかれば警察に逮捕される。
しかし、異国にいて毎日の孤独な生活の中で、ストレスやそれこそサウダーデの気持ちになっている時、人間はなり振り構わず、素っ裸になって、そこら辺りを駆け廻ってみたい心境になるのではないかと思う。誰しもその場に居合わせたら、衝動的に脱いでしまいたくなるのではないだろうか。