囲碁

先頃ある中小の出版社が『日本の名随筆』と題して、本巻一〇〇巻、別巻一〇〇巻、併せて二〇〇巻の随筆集を完結した。月一回、一巻の刊行を正確に守り、一巻から二〇〇巻完結まで、実に十六年八ヶ月の歳月を要した。最初の本巻一〇〇巻のテーマは、一字テーマで、「釣り」とか「猫」とか「花」などについて書かれており、別巻、一〇〇巻のテーマは、二字テーマで、「相撲」「映画」「書斎」などをテーマとして書かれている。

この別巻の中に「囲碁」をテーマにした随筆が二巻刊行されていて、その編集を文芸評論家で作家の中野孝次が担当し、自らも執筆している。碁の好きな直木三十五や菊池寛、川端康成などの有名な作家の碁に関する作品も掲載されている。

その他、多数の作家、各界有名人、プロ棋士など多彩な顔ぶれが揃っている。中でも大岡昇平と尾崎一雄の碁敵談義は、声を出して笑わずにはいられない逸品である。凡て推奨に値する秀作揃いである。

さて、この囲碁なるゲームであるが、何故こうも人を惹きつけ、興味を抱かせるのであろうか。その見方、考え方は様々であろうが、その一つには、一局の碁の中に人の人生の縮図のようなものが秘められているからではないだろうか。単に勝ち負けを競ったり、地面の大小を争うことだけでなく、何か遊戯を超えた興趣がそこには存在するのである。

囲碁のことを単に「碁」とも言うが、その他にも多くの呼び方がある。例えば「烏鷺(うろ)」とか「手談(しゅだん)」「爛柯(らんか)」「忘憂(ぼうゆう)」「坐隠(ざいん)」などである。

特にこの爛柯というのは、斧の柄が腐るということで、その由来は、中国の晋の時代に、ある木こりが仙人の打っている碁を見ていて、余りに面白いので時の経つのも忘れ、ふと見ると手に持っていた斧の柄が腐っていたというのである。驚いた木こりが家に帰ってみると、そこにはもう当時の人は誰も住んでいなかったという。

これは中国の故事の一つであるが、碁の面白さと人を夢中にさせる情景がそのまま伝わってくる。日本でも碁に夢中になって、親の死に目に会えなかったという話がある。

それではこれほど人を魅了してやまない囲碁の発祥と歴史について、少し触れてみたい。一般的に囲碁は中国で創始されたと伝えられているが、本当のところはよく分かっていない。バビロン(イラク中部にあったメソポタミアの古代都市、バビロン第一王朝の首都、新バビロニア王国の当時も、世界文化の中心として栄えた)からインドに伝えられ、インドから中国へ伝わったという説もある。

しかし、いずれも歴史的根拠が薄弱である。中国の伝説によれば、碁は堯帝が発明し、息子の丹朱に教えたという説もあり、舜帝が作って、その息子、商均に教えたという説もある。あるいは、夏王朝最後の桀王の臣、烏曹が作ったという説などもあって、いずれも後世からの聖人、偉人付会説の域を出ていない。その他、三千年ほど前、古代中国の先進地帯で、碁の原型が形成されたとする説も有力である。