私の読書遍歴
ある数学教授
「これら八人の数学者は、私が数学に足を踏み込んでから、ずっと神様のように思ってきた。少し大げさに言えば、本当に自分と同じように起きて、眠って、食べて出していたのだろうか、とさえ思っていた人々である。それがいつの頃からか、どんな天才でも神様であるはずがない、と思うようになった。人間であるならどんな人間だったのか、衣の下に隠れた生身の人間を知りたくなった。
数学史や伝記も何冊か目を通したが、それらは業績紹介や詳細な履歴書のようなもので、真の人間像が浮かんでこなかった。仕方なく、実際に自分の足で現地に行くことにした。いくら輝かしい天才であろうと、生まれ育った風土の影響下にあるはず、と考えたからである。ここでいう風土とは、自然、歴史、民族、文化、風俗などである。
調べていくうちに、天才の人間性ばかりか数学までが、そういったものの産物であることが分かった。その天才がその時そこに生まれたのが、全くの偶然ではなく、当然あるいは必然とさえ思えるようになった。学問を除けば、我々と同じように恋をし、失恋を嘆き悲しみ、他人を嫉妬し恨んだり、抜け目なく行動したりする人間であることも確かめた。
これら天才を追う中でもっとも胸打たれたのは、天才の峰が高ければ高いほど、谷底も深いということだった。栄光が輝かしくあればあるほど、底知れぬ孤独や挫折や失意にみまわれているということである。
人間は誰も、栄光や挫折、成功や失敗、得意や失意、優越感や劣等感につきまとわれる。そしてそれは自らの才能のなさのため、と思いがちである。否。天才こそがこのような両極を痛々しいほどに体験する人々である。凡人の数十倍もの振幅の荒波に翻弄され、苦悩し苦悶している。
天才がこのようなものと知ってから、天才は私にとって神ではなくなった。創造の苦しみを自ら進んで肉体にそして骨にくいこむほどに背負って歩いた人。たまたま運よく、あるいは運悪く選ばれたため、この世にいて天国と地獄を見た人といってもよい。そして、それにしてもすごい人々である」
八人の人達凡ての講座を視聴することはできなかったが、テキストを読んで見て、益々夫々の天才について興味が湧いてきた。またテキストの講師紹介欄に藤原正彦教授が、やはり新田次郎氏と藤原てい氏のご子息であることが載っていて納得した。