【前回の記事を読む】「将来、役に立つ?」子どもたちが感じる音楽の学習の意義とは
第1章 「楽しさ」と「実感」がある授業のために…
1-2 心(ココロ)──豊かな情操とは、美とは
少し脱線しましたが、それを踏まえるならば、人間として……と考えたならば、心の豊かさは重要だといえます。豊かな情操とはどういうものかということを念頭に置きながら、授業の設計をして、音楽を学んだから確かに心が豊かになった、あるいは、みんなで心が豊かになれる環境をつくった、と実感できるようにしたいのです。
〈はじめに〉で触れた心(ココロ)と頭(アタマ)との一致ですが、それらが二項対立や分離した形ではなく、統合的に捉えるべきことが、次の文章から分かります。
自制心は根性や気合ではない。
自制心とか意志力というと、特に日本人はただただ根性や気合でがんばると考えがちですが、そうではありません。自制心や意志力のかなりの部分は、スキルや方略なのです。したがって、言葉を用いて論理的に、その考え方や具体的な手続きを教えることは可能です。※1
たくさん知っている、たくさん思いつく、たくさんの視点をもてる、たくさん、あるいは高い技能をもっている、そういう様々なことが束になったものと心とは一体のものであって不可分であるということです(むしろ、その束になったものが心といえるのかもしれません)。衝動的な行いばかりではなく、様々に思考を巡らせつつ行動することができる態度。それは、単なる根性論、心の問題ではないわけです。
また、音楽は、「美」というものを扱う教科でもあります。
美は主観的なものではあっても、そればかりに留まると、〈5-4-2〉で述べるように、例えば「音楽の成績は先生の好みで決まってしまう」という悪印象や、「音楽に正解はないのだから何でもあり」といった安易な相対主義に陥ることになります。
「『美』は理念でもあるがゆえに、必然的に普遍性を要求する。理念とは、その本性上、他者からその普遍性を吟味されうるものである」※2ということを避けると、例えば個人の趣味で収集するものは別として、公立の美術館等は存在し得なくなってしまいます。
教育にとって重要なこと、あるいは育む必要があるのは、むしろ「美についての意識」である。より正確に言うならば、「美」とはどのようなものであるかについての本質的な理解、すなわち、主観的であると同時に普遍性を要求するものであるという、その本質の理解である。※3
そして、そうしたことは、学校におけるお勉強としてもふさわしいといえます。
大きな教育的意味がある。「美」についての意識、その本質的な理解は、わたしたちを安易な相対主義に陥らせることなく、互いに普遍性(共通了解可能性)を見出し合おうとする精神を育んでくれるからだ。それはまさに、教育が育むべき、この市民社会における市民の“教養”と言うにふさわしい。※4
学校では、そうした普遍性を言葉にして、対話によって確かめ合うことができます。