1 はじまりの火事
火事のあった日のいきさつはこうだ。
その日、真琴の父、櫻井良一は仕事が休みの日ではあったが、午後から急ぎの用事があると言って会社に出掛けた。夕方五時頃、仕事を終えたところで、これから実家に寄って帰るつもりだと妻に連絡を入れている。近々母親の一周忌法要があり、実家には芳名帳を取りに行くと言っている。
日頃、自身の車で通勤していた良一だが、実家に向かう時にはいつも電車を利用していた。火事の日も、車は会社に置いて電車を利用し実家に向かった。実家から最寄りの駅まで歩いて十分の距離である。
その後、良一が終電に間に合いそうにないので、今夜はこっちに泊まると言ってきたのが夜の十時すぎ。実家の最寄り駅の終電時間は夜の十時頃になる。実家にいた滞在時間は、夕方六時から夜の十時まで。約四時間。芳名帳は実家の納戸にしまっていたはずだが、見当たらないほど分かりにくいところにしまい直してあったのだろうか?
本来であれば、実家にものを取りに行くだけでそれほど時間がかかるはずもない。警察でも、その空白の四時間については最後までひっかかる問題として残ってはいた。しかし鑑識の結果、明らかに火元は居間のストーブの火の不始末が原因とわかった。消したつもりのストーブにカーテンの一部が燃え移って全焼したのだ。結果、空白の四時間は、何か用事があって実家に残ることになったことにより過ごした時間だと推察された。
「お義兄さん、今夜は早くに帰って来れそう?」
「なんだ、いきなり。給料日はまだ先だから、小遣いの前貸しはできないぞ」
義兄は、洗面台の前で、残り少ない歯磨き粉のチューブから残りをひねり出そうと苦心している。いつもと同じ慌ただしい朝の出勤前。
「お小遣いのことじゃないよ。ちょっと聞いてほしい話があるんだけど……」
あらたまった様子の義理の妹に、洗面台の鏡越しに目だけ向けた。しかし、すぐにまた歯磨き粉と格闘が始まった。
「そうだなぁ。今日くらいは、まぁ、なんとか時間がとれるかもしれないな」
相変わらず、期待するなという微妙な返答か。
「もし早く帰れそうなら、今日はお義兄さんの好きなピーマンの肉詰め、作っておく」
この中年のオジサマ世代は、そういうちょっとひと手間かけた家庭料理に飢えている。案外この「ピーマンの肉詰め作戦」は義兄をいつもより早く帰らせる効果があるはずだ。
「そうか。あずみの肉詰めか。前に食べたのはいつだったか……」
「わたしの肉詰めじゃないよ~。変に略さないでよ~」
「お前の肉詰めなんて、気色悪くて食えるか」
どうやら義兄は、歯磨き粉との格闘を諦めたらしい。そのまま歯ブラシを口にもっていくと、わずかな研磨剤で泡立ちが少ないままブラッシングを始めた。
「じゃあ、一応遅くなりそうなら肉詰めは冷蔵庫に入れておくから、いつものように温めて食べてください」
「分かった」
「それと、歯磨き粉の替えは、洗面台下の二段目の引き出しに入れてあるから」
「……分かった」
「じゃ、行ってきます」
「おう」
義兄との、朝の唯一の交流時間は終わった。
義兄の名前は、芦原啓介。三十九歳。りっぱなオジサンだ。寝ぐせが微妙に跳ねている。こう見えて、地元M警察署のれっきとした刑事である。その日の夜。あずみと啓介は、居間のソファに向かい合って座っていた。あずみの用意したピーマンの肉詰めを食べ終えた後、少々ご機嫌になった頃合いを見計らって例の相談事を持ち掛けてみた。
「あのな、捜査上知り得た情報は、いくら身内でも守秘義務というものがあるというのはもちろん知っているだろう?」
「だから、別に捜査状況とかそういうのを聞こうってわけじゃないの」
「じゃあ、一体何が聞きたいんだ?」